龍 庵真の履歴書

昔の記憶がかなり飛んでおり、「都合が悪い事は忘れるようにできている」まさにそのとおりと、感じてやみません。今、懸命に思い出しているところです。

覚えている限りの生涯を書き記す事で、あなたとの距離が近くなり、信頼関係を築きやすくなる事を願っています。まじめに生きようとしつつも、時代の荒波に翻弄されうだつの上がらない半生でした。
多くの皆さんに助けられ、「今」がある事を痛感しています。 感謝━━━━!!

生い立ち

地元 長崎

1974.8.31.18:22、佐世保と平戸間の過疎化が進むような江迎町(えむかえちょう)に、長男(弟が1人)として生まれました(元は北松浦郡で、炭鉱が盛んだったそうです)。親は共働きでばあちゃん子でした。

よくばあちゃんに、まじめにコツコツ続ける事が大切なんだと、言い聞かされつつも反抗していました。まじめに生きようと思い描きつつも、どこかしらズレた考え方をしていました。

反面弟が超社交的で、多くに慕われていました。当時陰湿だった私は、妬ましく感じすごくかわいそうな事ばかりしてきました(2012.10.14、池袋で約20年ぶりに再会しました、弟の結婚式)。まさか今、根本解放を声高らに謳えるようになるとは、全くもって考えていませんでした。

愛国心と恨みの感情

保育園当時、相手の指の骨が見えるくらいに噛み付いた経緯から、悪人呼ばわりされるようになり、罪悪感に苛まれていました。小3当時の先生が素晴らしく、もうケンカはしないと決めつつも、今度はいじめられるように。

特に小4の頃、死んだ夢をよく見ていました。強烈な復讐心。化けて呪い殺してやろうと、本気でした。なぜか『君が代』が好きでよく口ずさんでいましたから、怪しかったんじゃないでしょうか?

なぜか女子と話が合う事が多く、「何で俺は女に生まれんかったとやろ?」と悩んでいました。小3~中卒まで、先生からも「おっちゃん」とあだ名されました(小3の学芸発表会で、あるヒゲを生やしたおじさんの役が、かなり好評だったのがきっかけ)。

表面的善人

何かとりえがあったわけでもなく、夢なんてありませんでした(’86ワールドカップでマラドーナに感動し、サッカー選手を目指したが、挫折・・・)。たまたま受けた自衛官兼高校の試験に合格し、親や親戚・学校の先生や友達皆に「行った方がいい」と言われ、すんなり決めました(横須賀の少年工科学校#36)。

同級生らへの復讐心に燃え、親の存在を強烈に忌み嫌っていました。早く親元を離れたかったからです。環境を変えれば新しい人生が開けると期待していましたが、拍車がかかったように嫌悪感が加速していきます。

自分自身がとにかく嫌いでした(「鏡の法則」から、「見える世界すべてが嫌い」となります/変形性同質要素、国境線と先入観)。 今となっては申し訳ない限りです・・・。

自衛官時代

親元を離れて

15歳でライフルを扱うようになり、特殊な人生を歩み始めたきっかけとなりました。射撃は本当に当たらず、隣の的を撃った時も。「武器=殺人兵器」としか見なせなかった私は、今思えば左翼主義者の典型例でした。

化学が大好きだったのもあり(化学反応で、まったく新しい物質が生まれてしまう妙味。とにかく惹かれていきました)、爆薬学から不発弾処理等の仕事をするようになりました。生涯の趣味を持ちたく、詩吟を始めたのも高校生時代でした。

20歳で酒をやめた理由

17歳から酒を飲み始めたんですが(時効ですょね)、20歳できっぱりやめました。原因は飲んだ勢いで仲間を裏切ってしまったからです。とにかくまじめを装ってきました(今は解禁)。

酒を飲んで意識がなくなった瞬間、本音が出てきます。暴言を吐きまくる、強烈な酒乱でした。周囲は、変化をおもしろがって酒を飲ませてきました。建前はまじめぶっていても、本音は真逆だなんて方、あなたならどう対処しますか?やはり急速に相手にされなくなりました。

夜学に通うため練馬駐屯地を希望し、念願叶って配属されました。しかし実際に通ってみて、思い描いていた世界とかけ離れていました。ちょうど阪神淡路大震災(1995.1.17)での災害派遣と試験が重なり、通うのが嫌になり除籍。

やる事すべてが裏目に出て孤独になり、夢がなかったのも重なって、生きる目的を真剣に考えました(小1当時、海開きの日に溺れ入院。18歳当時、面許取得日に事故。ながらも「お前は生かされているんだ」と言われ続けていたことに納得できません)。

強烈な自殺願望がありましたが、生まれて来た以上理由を知らなければ死ねないと思い、長期に渡って悩み続けてきました(自殺する勇気さえもありませんでした)。「もしこの電車がハイジャックに遭おうものなら、真っ先に俺が犠牲になりに行く。誰かやらかさんかなぁ?」なんてアホな事を考えていました。

人生の大転換

ある時目の前が啓け、今まで生きて来た意味を理解できました。表現しようのない、心温まる自己承認と感謝に満たされました。

よく「下がりようがないところまで落ち込めば、転換される」と言う方がいらっしゃいます。まさにそれでした。後になって、この時の体験を「神様(サムシング・グレート) に出会った」と表現しています。

最も大きな気づきは、「武器がなくなったら平和な世界になるのか?」です。答えは否です。どこにでもある鉛筆でさえも、殺人の道具になり得ます。扱う人の心次第で、日本刀のように武器も芸術品になり得る事を諭されました(魂)。まさにこの時が、初めて「心」を見つめた瞬間でした。

死なんとする者は生きん

【全身全霊で尽くす事の尊さ】も学びました。身を粉にして尽くしている時、自らの命を削っているような感覚になった事があります。

ある日「寿命を縮めているんじゃなかろうか?」と、強烈な不安が襲ってきました。ある時、尽くした方から猛烈に感謝されました。すごく嬉しく、号泣しました。その時実感したのは、「命を削っていたのは、『私の中にあるエゴ』」でした。その時まで生きてきていたのは、「エゴを基とした私」だった事を痛感しました。

そこから20年、座右の銘として言い続けているのは、「過ぎてみれば愛だった」です。人生観が大きく変わり、「世の中をよくしたい!」と、恩返しの気持ちが芽生えてきました。「愛国心について考える」なんて講話も部隊内でありましたが、この辺りから価値が分かるようになってきました。

矛盾

それからというもの、上下関係が厳しい社会ですが、私だけはタメ口が許される場面が多かったです。本部勤務が多く、司令部や他部隊の皆さんとも即溶け込めるようになりました。でありながらも、悩み続けていた時に出会った方の魅力に惹かれ、民間の世界に強い関心を抱くようになりました。

別件で、ある先輩に肩をもんでもらい、マッサージの魅力にはまっていきました。「コリがほぐれるって、こういうことか」と体感したのを鮮明に覚えています。誰が見てもハッキリ分かるほどの、強烈な猫背でした。

自衛官のままでは、(私には)根本的に世の中をよくする事はできないと確信しました。10年いたら埋もれてしまうように感じ、9年で退職を決行しました。多くの反対を受けましたが、安定した生活より、天職を見出したい一心でした。

ただ先輩や同僚から「整体で開業しろよ」とたくさん言われてきましたが、私にそんな事ができるはずがないと思い込んでいました。なぜなら強烈なマイナス思考だったからです。【世の中をよくしたい】vs【自分が大嫌い】という自己矛盾に、ずっと苦しんできました。

トンネル(暗黒時代)

未体験領域

高校から自衛官でしたから、履歴書の書き方から教わりました。夢が見つかったからやめたわけじゃありません。自衛隊という世界が、いかに保護されていたかを実感しました。自虐的な思いがどこからともなく湧いてきます。

とにかく“なぜこんな問題だらけな世の中になったのか?”問題の本質を知りたくて、土方からガソリンスタンド、ドラッグストア・・・多業種やりました。

最も多かったのは営業でした。相手の心を理解し、自己成長にうってつけだろうと考えました。印鑑をはじめ、コピー機や太陽光発電等々何度もクビになりつつやり続けました(昨日の「私」に克ちきる)。

印鑑営業で、姓名判断(生命承認)を覚えました。今ではほとんど瞬時に画数が計算され、◯秒で解説付きの言葉が出ます。

占いなんてと全く信じないタイプでしたが、やってみると案外おもしろく、趣味になってしまいました。 「名は体を表す」ということわざがあるように、名前から人生を見つめるような事をしてきました。本質を見つめるほどに、心や体と名前は、共通点がすごく多いです。

世間の荒波にもまれました。自衛官当時、啓けたと思えた経験も、井の中の蛙だった事を痛感しました。

志の基点

また鬱状態になり、仕事が手につかなくなりました(血圧が上で85(+_+))。そんな時ある韓国の老婦人に出会い、セラピストを志すきっかけとなりました(私がセラピストを志した理由)。

日帝時代の方ですから、日本語ペラペラです。強引に約束させてきました。ウツだった私は斜に構え、真剣には考えていませんでした。

時を経て「セラピー?あなたなら確実に大成しますよ。応援しますよ(^_^)ノ」と言って下さる方とご縁を持てました。『ホジュン』という韓国ドラマを紹介され、こんな死に方がしたい!(特に最終話)と感激し、 本格的に志すようになりました。

失う物が何もありませんでしたから、身動きは軽かったです。生きていく事に必死でした。

魂磨き

理想と現実のギャップ

資格だけでもとろうと、簡単なセラピストになるための試験を見つけ、知り合いの紹介で就職しました。しかし長年やって来た我流の癖が抜けず、研修の時点でクビでした(その店では、「皆同じ手技に」という方針でした。「そんなに自己流がやりたいなら、お前1人でやれ」と・・・)。

自信をなくし、体に触れるのが怖くなりました。「皆、無料だったから喜んでくれていたんだ」と愕然としました。しかしどうしてもあきらめきれません。老婦人との約束を果たして、世の中をよくしたかったです。”きっと天職に違いない”という根拠のない確信がありました。

掃除ボランティア(鍵山秀三郎先生)と出会い、「心を磨く」という視点に関心を持ち、かなり熱心に通いました(心あるところに宝あり、完成人と自然体、ゴミから教わったこと)。

霊性は高まっていくんですが、生活費さえもなくなり行き詰ってしまいました。

資金稼ぎ

本気で資金を得るため、新聞屋で働きました。住み込みで、20時間働いた日も。

所長は私より2つ下でしたが、人格的にすばらしく、文句なしに尊敬していました。※2013.5.22、渋谷に寄った事もあり、感謝の気持ちを伝えに行ってきました。辛かった思い出(今は懐かしい)がよみがえり、涙をこらえました(/ _ ; )

ある程度たまった時点で、再度整体学校を探し始めたところ、検索のず―っと下に山本健正先生のHPがありました。

「仕事とは、生き甲斐の創造」というフレーズに惹かれ、見学に行きました。

先生がどうかより、私の判断基準は「周囲の方々」です。どんなに先生が素晴らしくても、「私」が何も変われなければ意味がありません。学生の皆さんの目の輝きに即決しました(明快に現状を把握する秘訣)。

整体技術習得

始めてみて、技術の高さに驚きました。私の判断に間違いなかったと思いつつも、私にできるか?いつ見切りをつけられるか、不安でなりませんでした。

学資金が足りませんでしたが、新聞屋当時の集金でチンピラ系のお客さんにぶん殴られ、慰謝料でギリギリまかなえました。

社会文化功労賞(他にオバマ大統領諮問機関、ローマ法王からも盾をいただかれてます)を受けた先生だから素晴らしいんじゃなく、値するだけの人格を持たれているからこそ、そんな賞を受けたんだろうと痛感しています(山本健正先生の生涯)。

誰もが「こいつぁもぉダメだ(♯`∧´)」と見離すような状況で、先生だけは私の成功を信じ続けて下さっていました。現役の整体師でもあり、開業できるだけのエッセンスのみを教えていただけ、1年経たずに開業にこじつけられました(早い方は3ヵ月)。

まさに恩人です。先生いわく、「専門職にしか分からない専門用語を覚えても、お客様には自慢にしか聞こえない。記憶してもらえるセラピストになれ!」と繰り返されていました。

開業~自己承認

いつまで続くのか?

新聞屋でなんとかやりくり続けてましたが、店を持つ資金までには至りませんでした。アルバイトしながらかけもちするわけにはいかず、退社し三軒茶屋の風呂なしボロアパートから出発(2008.2.20)。出張を主にやっていましたが、長くは続きませんでした。顧客が全くおらず、アルバイトのみという時期もありました(当時の平均睡眠時間は約3時間)。

転換点

迷惑メールにたまたま入ってきた「真我開発講座」との出会いに触れ、大きく転換されました。明確な目標がありつつも、そこまでたどり着けそうもない強烈なあきらめ感がはびこっていました。

「私なんかじゃ~」→「もしかしたら、できるかも~」
に考え方が変わりました(今まで気付かずも、蓄積されてきた土台があっての事です。多くの応援してくださった皆さんに感謝^^)。

「しても~いい」というフレーズにも、すごく助けられました。

姓名判断では、マイナスな点ばかりが目についてましたが、自然に美点が見えてくるようになりました。美点発見が趣味になり、望ましい面だけを見つめる「姓名承認」の原型ができ上がっていきました。

2010年、池袋の高級マンション最上階の一室を間借りさせてもらえるようになり、2010.11.9結婚(2017.8.24離婚)。

2011.6、体だけでは問題解決に疑問を感じ、メンタルの勉強(ディープマインドセラピーの原型)の開始。

2012.8.31-B.D.プレゼント
2012.8.31 誕生日プレゼントいただきました!

脳科学との出会い〜開業復活

2014年、オバマ元大統領の「ブレインイニシアティブ」という記事を読み、《脳だ!》と直感しました。「心と体の調和」だけでは期間が長くなってしまいます。脳が橋渡し役になると発見しました。脳を理解することによって、曖昧にしていたことが氷解していきました。

世界進出を本気で考えており、道を模索する中で一攫千金に手を出し、大失敗。離婚と重なって経営危機に陥り、限りなく廃業に追い込み、就職。脳活性を基とした会社で、苦手分野だらけの下積み生活を3年継続させました。そのおかげもあって、理想である今の奥さんと出逢えました。

会社での役割にも重要性を感じていましたが、ステキな方々とのご縁をいただく中、ほんの少しチャンネルを変えた途端にアイデアが湯水の如く溢れ出てきました。いったん出てきたら、抑えきれなくなりました。

奥さんの強烈なバックアップもあって、横浜にて開業復活する運びとなりました。

自己承認の重要性

靖国の本殿参拝等を経て、「本来あるべき日本人」「多くの日本人が自己承認できない理由」・・・を知りました。福沢諭吉著『学問ノススメ』からヒントを得て、「トータルバランス整体」を「自立整体セラピー」→「Universal Flow 整体」→「Universal Flow Therapy(もはや整体とは呼べません)」へと改名。

“なぜ乱れきった世の中なのか?”を自らに問うた時、「個々人の心と体が調和できておらず、理想が曖昧だから」と結論づけました。

だからこその、Universal Flow Therapyです。これから、教育面をはじめ根本的に大改革の必要性を痛感しています。

私の天命は、【お互いを認め合える感動世界の創造】です。世界中の皆さんがiphoneレベルに「あなたの理想の人物像とは?」を話題にしている世界を志しています。お互いが「ステキ!」と認め合えている世界を創り出すために生まれたのが、《ビジネスネーム「龍 庵真」》です。

立命コーチング

3.運勢=?
変形性同質要素
国境線と先入観
表面的善人 
人格者ほど陥りやすい盲点