秋に30kmを完走できるよう、極力たくさん走るようイメージしています。私にとっては、ジョギング自体が瞑想です。呼吸をBGMとみなし、没頭できる環境はとてもいいですね。
結論。感謝していれば口角が上がり、口角を上げていれば感謝の気持ちが芽生えやすくなるのでは?
ジョギング最中の気付き。過去、多くの方から「感謝が足りない」「もっと感謝したら?」と指摘されてきました。「ありがたいなぁ」「感謝だなぁ」と感じている中での一言。
「じゃあ、どうすれば感謝できるようになりますか?」と訊いても、誰も教えてはくれません。今振り返ってみれば、感謝とは「する」のではなく「今あるモノ・コトに気づく」のですから、教わるようなものではありません。
数多のご指摘から、「私は感謝できていないんだ」と思い込み、感謝について熟考してきました。感謝を研究すればするほど混乱し、とうてい不可能であるかのような難しさを味わってきました。
リンカーンの名言
ジョギング中に気づいた仮説は、「感謝していないんじゃなく、感謝しているように見えなかったのでは?」です。
当時の悩みの1つに、「顔の彫りが浅いこと」がありました。写真を撮った時、のっぺらぼうみたいで嫌だったことを思い出しました。セルフイメージが低いと、何かにつけて自分自身にケチをつけたがります。そういう自分が嫌でもあり、悪なる相乗効果を醸し出しておりました。
仮説を深めて納得できることは「40 歳になったら、人は自分の顔に責任を持たねばならない」(A.リンカーン)名言です。「顔」は親から与えられるものだが、40 歳を過ぎる頃から経験の重みや他人を受容する気持ち、自分に対する確信が顔の表情に現れてくるもの。
30kmを完走する目標を立ててみたものの、本番当日でなければ時間の関係上まず走れません。よって負荷をかけるため、かかとを浮かせたり口角(表情筋)を上げ続けたり等試みています。
感謝=今あるモノ・コトに気づく
口角を上げて走っていて、彫りが浅かった当時の状況が脳裏に蘇ってきました。
感謝していれば自然と口角が上がり、口角を上げていれば感謝の気持ちが芽生えやすくなるのでは?
「感謝しているが、これは感謝ではないのか?」そんなことはありません。「感謝の対義語」からも、感謝0な方はいませんし、誰しも盲点があるように100点満点な感謝もあり得ません。それでも、100点満点の感謝を目指して、日々精進を積み重ねていった方が明るい未来が待っていそうですね。
「感謝=今あるモノ・コトに気づく」ならば、気づきのバックボーンは成長欲求です。成長欲求とは問題意識でもあり、目標達成意欲とも解釈できます。
答えがないような暗闇の中で、話が噛み合わないくらい考えに考えてきた生涯に、区切りをつけれそうな感謝の気持ち。
ありがとうございます。