鍵山秀三郎さん(イエローハット創業者)に、掃除で自称弟子入りボランティアしていた時期がありました(過去、毎月の街頭清掃では世話人させていただいていました)。生活できなくなるくらいまで没頭熱中し、底をつき新聞屋に住み込みで働くようになりました。
鍵山先生は、今でもすごく尊敬するお一人です。見た目には、「何の変哲もないじいさん」です。そこがまたすごい・・・。そんな出会いを基に体験したエピソード。
ある駅前掃除にて
ある日どうにも再利用できそうにない、カビだらけの本が無造作に山積みしてありました。あきらかに周囲の邪魔です。もしそれが私ならと考えると、「そりゃ腐るよなぁ…」と同情心が湧いてきました。すごく申し訳ない気持ちになりました。本来あるべき使われ方をしていないからです。
「ゴミ」とは、人間が勝手に決め付けているから「ゴミ」になっているだけです。「ゴミ」と見なせるような物は何一つ存在しないと考えています。どんな物でも、捨て方次第で再利用の価値が生まれてきます。使い方次第で鉛筆も殺人の道具になり得、銃や刀も芸術品として崇められるようなものになり得ます。
「せめて私は、願われるような処理をするから・・・」という思いで触れた時、ビビッときました。”本が私を信頼してくれた!”という実感があり、感動して大粒の涙が溢れてきました。
人は誰しも、どんなに自分で自分を信頼しようとすぐに限界がきます。他(たとえゴミでも)から信頼されることで初めて自分の価値を認識できるようになります。自分を信頼し愛せている分、他を信頼し愛せるようになります。すべては「鏡」です。
それまで私は、ボランティアとは自分以外の誰かのためにやるんだと考えていました。ゴミは”自分自身の喜びのためにやれ”と教えてくれました。
ボランティアとは、誰かに頼まれてやるようなものじゃありません。自発的なものでなければヤラセになってしまいます。与えることで、「与えた喜び」を受けています。教えてもらえた感謝の気持ちと、それまでの自分の不足さを反省しました。人生を大転換させた経験の1つでした。
変形性同質要素
捨てたゴミから捨てたその方の気持ちが、伝わってきた体験記があります。
同じく掃除していた時(新宿アルタ前でした)、誰かが吐いた汚物がありました。それを素手で片付けている時、上司に散々いびられ、言うに言えなかった悲しみと憤りが伝わってきました。どうやら隔てるものがないほど、純粋に感度がいいらしいです。その体験以降、私はその掃除の場では手袋をしないよう努めています。
「問題から逃げると、ますます問題が大きくなります。避けられない問題は受け容れる。その上で、できるだけ問題に近づいて問題解決を図ることです」(鍵山秀三郎)
様々な批判をしてくる方、何かにつけて腹を立てている方、たまにいらっしゃいますね。自分の中にも、必ず「変形性同質要素」があります。私たちの脳は、オファー波(送信)とエコー波(受信)という関係にあり、ご本人の周囲を見ればご本人自体が見出せると言われています。私はそこをよく見つめ味わうことで、たくさん解放された感があるんですが、あなたには似たような経験ありませんか?
経験からの実感で、普遍的なものだと断言できます。ゴミ(他にも「金」や「食べ物の好き嫌い」いろんな面において同じです)を見つめる目と、人を見つめる目は、そっくりです。