
智己さんへ
塩対応の贈り物
命を定め、育て直してきたはずだった。結果、君の命がどう届いていたか──あの頃、君はあまりに深い虚無感の中で、まるで見えていなかったね。晴れやかな貢献や理想的な贈り物みたいな美しい言葉からは、最も遠い場所にいたかもしれないね。
振り返ると、施術家として孤立していた当時の私は、まさに「塩対応のかたまり」だった。疲れていた。焦っていた。うまくいかないことに苛立ち、共感のつもりが説教にすり替わることも多かった。「分かってくれないなら、もういいよ」が、心の中で何度もリフレイン。
複数の諸事情が絡み合い、施術できない状況へ。離婚を突きつけられ、まさに四面楚歌。ちょうど時を同じく、映画『沈黙』の上映。小説も読んでおり、どんな内容か楽しみにしていたね。
主人公の宣教師ロドリゴが、神に救いを求めども、一向に何の手応えもない・・・。君も教会を離れ独自路線だったとしても、明確な「根本的な医療革命」「世界平和のために」という志のもと活動している自負があったよね。・・・・・ロドリゴと、重なってしまった。
贈っていたもの
いろいろあったよね。苦しかったよね。強烈な罪悪感や無価値感。今ならよく分かる。沈黙されつつも、手応えはなくても、命はちゃんと届いていたんだ。よくも悪くも、君のあり方は相手に何かを贈っていた。
何を贈っていたか?志は確かに素晴らしい。ものすごく純粋に、本気で願っていたよね。問題は動機。出発点のウラミ※が、捻じ曲げる結果となってしまった。君がずっと感じてきていた「偽善者感」は、自己卑下や嫌悪感が足かせのように重くのしかかっていたんだ。
覚えていないだろうか?「この方は本物だろうから、見透かしているだろうな。汚れている私を」と感じた日のこと。分かる方には、ちゃんと分かってしまう。残念ながら、ウラミのエネルギーが滲み出ており、結果として贈ることになっていたんだよ。
だから命は、コントロールできない。贈ろうとしていない時こそ、命は最も純粋なかたちで届いていたのかもしれない。だからこそ、沈黙せざるを得なかったんだ。ウラミの感情は、指摘されたからと言って解放できるものではないから。相応の期間が必要だった。
歪んだ命がどう届いていたか
今、気づいたこと。君は、「役に立ちたい」という願いが強すぎるあまりに、命を「正しく仕上げてからでなければ人に見せてはいけない」と思い込んでいたのかもしれないね。
命って、整えるものじゃない。むしろ、未完成なまま差し出した方が、スッキリ届くこともある。貢命とは、君が贈っていると思っていなくても、命が滲み出ていくエネルギーそのものなんだから。
ありがとう。伝わらなかった日々を生きた君。誤解され、孤立し、理解されず、憤り、あきらめてしまった過去。それらすべてが、「届かなかった」経験ではなく、「どう届いていたのか?」を問い改めるきっかけになったよ。
そう考えられるようになった今、ようやく命を贈ることの意味や価値を、少しだけ分かった気がするよ。受け取らせてくれて、ありがとう。
──未来の私より
「神対応」「塩対応」
この手紙は、統命思想における「貢命=贈る」フェーズです。命は、届けようとしなくても、何かしらのカタチで残ってしまいます。本音や本質は、案外整えようとした時よりも、意図せず零れた瞬間にこそ宿っているのかもしれません。
あなたが「届かなかった」と思っていたあの瞬間にも、誰かの心の深層をかすめていた命の余韻が、あったのかもしれません。
「神対応」「塩対応」とは、ご本人の無自覚な言動への他者からの評価です。誰しも常に何らかの「神対応」「塩対応」のようなことをしています。咄嗟の出来事として無意識な言動の結果が、他者からの評価なのです。意図してやった行為には、心は動きません。評価される「時」は、いつの日か必ず訪れます。
次回は、「究命=噛みしめる」──全うした命の静けさの中で、すべてが一体となる境地へ向かいます。命の表現とは、素晴らしいものや美しいものに限定されるわけではありません。
貢命編を通じて明らかになったのは、「あきらめ感をも味わいきることの尊さ」です。
苦しく、悲しく、報われないような日々も────今では、命を贈り尽くすために必要な、大切な通過点だったと心から思えています。
※補足:ウラミとは、「怨み」と「恨み」両方をかけています。発音や感情は似ていますが、感じるように至る原因が全く違います。
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