求めてきたマリアージュ〜堺歩美さん物語8

求めてきたマリアージュ〜堺歩美さん物語8

前回からに続き、美奈さんへのインタビューはまだ続いていた。厨房の奥で、小さく火の音がしている。営業日の賑わいとは違い、店全体がゆっくり呼吸しているような静けさだ。

私はメモ帳のページをめくった。

「もしよろしければ、そのセラピーについて、もう少し詳しく聴かせていただけますか?」

美奈さんは小さく頷いた。

見えない領域

「そのセラピーって、どんなことをするんですか?」

率直に尋ねると、美奈さんは少し笑った。

「それが、一言で説明するのが難しいんです」

「難しい?」

「ええ。何かを教わる、という感じでもないんです」

そう言って、少し考えるように視線を上げた。

「むしろ、自分の反応を見ていく感じ、でしょうか」

反応。その言葉を書き留める。

「体の反応、ですか?」

「体もそうですし、考え方もですね」

美奈さんは続けた。

「龍先生は、何かを押し付けることはありません。こちらの反応を見ながら、質問されるんです」

質問。それはカウンセリングのようなものだろうか?美奈さんは首を振った。

「少し違う気がします」

料理に似ている

「どう違うんでしょう?」

「うーん・・・」考える間を置いてから、美奈さんはゆっくり言った。

「料理に近いかもしれません」

思わず顔を上げた。「料理?」

「はい」美奈さんは頷いた。

「どういうことでしょう?」

「素材って、それぞれ持っている味がありますよね。無理に変えるんじゃなくて、そのまま活かす」

確かにフレンチでも和食でも、よく聞く話だ。

「龍先生も、それに近い感じなんです」

「どういう意味ですか?」

「もともと自分の中にあるものを、ただ見つけていく感じなんです」

その言葉を聞いた瞬間、なんとなく既視感を覚えた。さっき美奈さんが言っていた言葉。

《自分の中にあったものを、やっと使えるようになってきた》と、どこかつながっている気がする。

無理が減る

「だから最初は、何が起きているのかよく分からないんです」

美奈さんはそう言って、小さく笑った。

「でも、続けていると気づくんです」

「何に?」

「無理が減っていることに」

穏やかな声。

「料理でも、店でも、人生でも。今までは頑張っていたところが、自然に動くようになるんです。『あ、これが求めてきたマリアージュなんだ』って感じています。」

私はペンを止めた。「頑張らなくなる」。それは一見、怠けているようにも聞こえる。けれど美奈さんの話を聞いていると、そういう意味ではない気がする。むしろ逆だ。本来の力が、邪魔されなくなる。そんな感覚ではないか。

周囲も変わる

「不思議ですよね」

美奈さんはそう言って、気持ち肩をすくめた。

「説明しようとすると難しいんです。でも、店のスタッフも少しずつ変わってきていて」

隣に座っていたスーシェフが、小さく笑った。「確かに。言われて気づけました」

短い一言だったが、どこか実感がこもっている。その様子を見ながら、ふと思う。もしそれが本当なら。それは単なるセラピーの話ではない。

深い人

私はもう一つ、気になっていたことを尋ねた。

「その龍先生は・・・どんな方なんですか?」

少しだけ間を置く。

美奈さんは一瞬、遠くを見るような表情をした。

そして、ゆっくり答えた。

「そうですね・・・」

小さく笑う。

「一言で言うなら」

少し首をかしげてから、言った。

「とても深い人です」

その答えは、思っていたよりもずっとシンプルだった。けれど不思議と、強く心に残った。

深い人。そう言われた瞬間、なぜか訊き返せなかった。

「声」の理由〜堺歩美さん物語7

前回からの美奈さんへのインタビューが、今回も続きます。

「声」の理由〜堺歩美さん物語7

思いがけない話題

「実は、私・・・」

美奈さんはそう言って、少し言葉を探すように視線を落とした。厨房の灯りがほのかに揺れている。さっきまで聴いていた料理や店の話とは、それた雰囲気が流れ始めていた。

「こういう話、まさか取材ですることになるとは考えてもいませんでしたが・・・」

そう前置きしてから、ゆっくりと続けた。

「今、あるセラピーを受けているんです。きっかけは、舌ガンです。ステージ1で、もう寛解していますけどね」

セラピー。私はメモをとる手を止めた。料理人の話としては、意外な言葉だった。しかもガン、舌ガンだった時期があったなんて。

「最初は正直、半信半疑でした。料理のことでも、店のことでもないですしね。でも、受けていくうちに・・・、不思議な変化が起きて」

「変化・・・・・・ですか?」

「ええ」美奈さんは穏やかな表情のまま、頷いた。

体の変化

「考え方が変わった、というより・・・、『体の感じ方が変わった』という方が近いかもしれません。」

体の感じ方。その言葉に、少し首をかしげる。「どういう意味でしょう?」

美奈さんは少し考えてから、言葉を選ぶように話し始めた。

「例えば、呼吸ですね。前より深くなった気がします。あと、声も。無理に出そうとしなくても、自然に出るようになったというか・・・。当たり前の基準が違うんです。私が変わることで、店も変わりました。私が何かをしたわけではありませんが、スタッフ全員に影響がありました。」

そう言いながら、少し照れくさそうに笑った。となりのスタッフとアイコンタクトを交わしている。

「さっきおっしゃられていた『声』も、もしかしたらその影響かもしれません」

思わず頷いた。確かに、ただ落ち着いているだけの声ではない。どこか無理がなく、自然に響いてくる。今まで声に関しては、特別な感覚がある。多くのインタビューを経てきて、声と感情は密接に関連づいている。「声で人生が読み解ける」と自負している。

美奈さんの声は、長期にわたって今の声なわけがない。一般的には、どうやっても手をつけられない領域があると考えるとつじつまが合う。明らかに何らかの出来事を通じて、磨かれた声だ。それは技術では説明しようがない種類のものだ。

出会い

「そのセラピーは、どなたが?」

そう尋ねると、美奈さんは姿勢を正し、凛とした声で

「龍 庵真(りゅう あんしん)という男性です」

その名前を聞いた瞬間、改めてメモを再開した。

「龍先生、ですか?日本人?」

「はい。日本人です。きっかけは友人のお勧めです。あまり詳しいことも分からないまま、試しに受けてみたんです」

「受けてみて、どうでしたか?」

美奈さんはすぐには答えない。考えるように間を置き、それからポツリ。

「すぐに理解できたわけではないんです」

「そうなんですね」

「ええ。今でもよく分からない点は多いです。」

当たり前が変わる

続けた理由を尋ねると、美奈さんの声のトーンがまた変わった。「体の方が、先に反応していたからです。『当たり前が変わる』ので、振り返った時に気づけました。」

体が、先に反応する。その言葉は、どこか印象的だった。「例えばどういう反応ですか?」

「うまく説明できないんですけど・・・、なんとなく無理がなくなっていく感じです。『マリアージュ』って、フレンチでよく聞きますよね?私の中で、どんどんパズルが組み合わさっていくような」

料理の話をしている時とは、少し違う口調だ。けれど、不思議と説得力がある。

「頑張らなくても、自然に動けるようになるというか。料理の時も、店のことを考える時も。『なんだ。私って、これをやりたかったのね』って」

そう言いながら、美奈さんはカップにお茶を注いだ。湯気がゆっくりと立ち上る。

探求の始まり

「それで、続けているうちに気づいたんです」

「何に、ですか?」

「自分の中にあったものを、やっと使えるようになってきたんだなって」

その言葉を聴いた瞬間、私はかすかに視線を上げた。

《自分の中にあったもの》それは料理の技術の話でも、店の経営の話でもない気がした。もっと根本的な、核のような何か。

「それが・・・、さっきの『声』につながっているのかもしれませんね」美奈さんはそう言って、照れくさそうに微笑んだ。

私はメモ帳を閉じ、もう一度美奈さんの顔を見た。

料理人としての人生。
母から受け継いだ資質。
今話しているこの変化。

それらが、どこかでつながっている気がする。ただ、まだ全体は見えていない。静かにペンを取り直した。

「もしよろしければ、そのお話・・・。取材の域を超えてるようにも感じますが、もう少し詳しく聴かせていただいてもいいでしょうか?」

美奈さんは驚いたように目を丸くしつつも、間を置き頷いた。「ええ。もちろんです」

次回は、美奈さん視点の見解です。

定休日のまかない〜堺歩美さん物語6

以降、1日のインタビューですが、3回(現状の予定)に分割します。歩美さんにおいて、大いに重要な転換点となります。

静かな店

店の前に立つと、営業日の賑わいとは違う静けさがあった。「定休日」の表示がなされ、看板の灯りも落ちている。それでも、厨房の奥から柔らかな灯りが漏れていた。

扉を開けると、スタッフに導かれ、オーナーシェフ 美奈さんがいた。客席は片付いていて、規模のわりに広く感じる。厨房の空気だけが生きているようだった。私はカウンター越しに、厨房に立つ美奈さんへインタビューさせていただくことになった。

定休日のまかない〜堺歩美さん物語6

「いらっしゃい。今日は営業じゃないから、気楽にどうぞ」

「はい。ありがとうございます」

「今日はお伝えしていた通り、まかないです」

「はい。楽しみにしておりました」

美奈さんは微笑みながら、鍋に火を入れた。手際は静かで無駄がない。包丁の音も控えめで、どこか落ち着いたリズムがある。

語られる歩み

料理が出来上がるまでの時間、2人はぽつりぽつりと話し始めた。

最初は店のこと。次に料理のこと。やがて話題は、自然と美奈さんのこれまでの歩みに移っていった。母のこと。店の歴史のこと。志のこと。

料理の道を継ぐことが、最初から決まっていたわけではなかったこと。むしろ距離を置こうとしていた時期もあったこと。

「継ぐって、言葉にすると簡単ですけどね」

美奈さんは鍋を混ぜながら、朴訥に言った。

「本当は、ずっと葛藤していました」

母の背中。
守ってきた味。
店という場所の重さ。

それらを受け取ることが、どれだけ簡単ではなかったか。話を聞いているうちに、少しずつイメージができ上がってきた。

やがて料理ができ上がり、カウンターに皿が並び、スタッフが食卓の準備をしてくれる。美奈さんとスーシェフだと言う方と、私のAD。4人で食卓を囲む。

見た目は素朴だが、ほのかな心地よい香り。ナイフとフォークを取り、一口運ぶ。派手さはないながら、どこか奥行きがある。

話はそのまま続いた。

店を続ける中での壁。
料理人としての迷い。
母との距離。

私はメモを取りながら、時折顔を上げて美奈さんを見た。その時。ふと、違和感に気づく。いや、違和感というより──妙に心に残る感覚。声だ。柔らかい。落ち着いている。けれど、ただ穏やかなだけではない。どこか芯がある。静かなのに、不思議と耳に残る。

首をかしげてしまう。(・・・なんだろう)今まで取材で会ってきた人たちとは、どこか違う。説明しにくいが、確かに感じるものがある。何かを乗り越えてきた人の声。気づくと、言葉が口から出ていた。

「美奈さんの声って・・・」

美奈が顔を上げる。「はい?」

「なんというか・・・」少し言葉を探した。

「落ち着きとともに、すごく芯がありますよね」

美奈さんは少し照れくさそうに笑った。「そうですか?」

「ええ。今まで会った人と、ちょっと違う感じがして」

一言

私自身も、うまく説明できない。ただ、ふと疑問が浮かぶ。何があったら、こんな声になるんだろう?料理の話。人生の話。それだけでは、まだ足りない気がする。もう少し踏み込んでみることにした。

「これまでの経験が、声に出ているんですかね?」

そう言うと、美奈さんは少しだけ考えるように視線を落とした。

そして、静かに言った。

「もしかしたら・・・、あるかもしれません」

少し間が空く。

「実は、私・・・」

その言葉の続きが、私のこれからの探求を、大きく変えていくことになる。

#幸せ
#料理
#人生
#鍋
#料理人
#龍

運命の手紙〜堺歩美さん物語5

今回で大きな一区切り。思いがけない巡り合わせは、逆算と事実検証を重ねて至ります。今回のために、多くの伏線を張ってきました。

候補全滅

企画の候補として挙がっていた店は、いくつもあった。だが実際に当たってみると、取材拒否・スケジュール不一致・企画との方向性のズレ・・・。1つ、また1つと消えていく──。

気づけば、候補名がすべてなくなっていた。そんな時、編集部の新人がぽつりと一言。

「そういえば・・・、麻布に変わった店があるらしいですよ。前にTV局に勤めていて、その時一緒にやったカメラマンの話です」

紹介された店の名前を見て、少し眉をひそめた。フレンチ。今回の企画の対象は、庶民的な飲食店ではなかったか。フレンチのような格式ばった類では相性がいいと思えない。

「違う」と思いつつも、なぜかその名前が頭に残った。「変わった店」とはどういう意味なのか?

打診

数日後、1通の封筒。正式な取材依頼ではない。ただの打診。いわば、軽いジャブだ。

「現在このような企画を検討しており、貴店も候補の1つとして挙がっております」

断られても構わない。むしろその可能性の方が高い。それでもなぜか、送らずにはいられなかった。封を閉じ、業者へ郵送依頼。なぜこんなにも心がざわつくのか?

他にも多くの候補を挙げて打診を送っている。どれもことごとくつながらない。企画自体は悪くない自負がある。あまりの行き詰まりに、長女 育美からの「ママらしい」がのしかかってくる。完全に無関係なのに、なぜこうも気になってしまうのか?

確信

数日後。返事が届いた。

まず、オーナーシェフの美奈さん自身が、弊社のこの本の愛読者だと言う。事務的な質問。企画の趣旨、取材の形式、掲載時期等。

話の元のカメラマンに「変わった店の理由」を訊くとともに、スタッフに下見を兼ねて食べに行かせた。

「候補扱い、終わりでいいと思います」誰も「どんな味だった?」とは問わない。訊いた瞬間、話が平らになる。私が欲しいのは評価ではなく、次号テーマへの「翻訳事例としての成立」だから。

一言だけ返す。「理由は?」

担当は、言葉を選ばなかった。選ぶ必要がないからだ。「思想を掲げていないのに——揃ってます。説明じゃなく、実践として。——読者が分かったつもりで終わらない、温度と間がしっかり伝わる形がイメージできました」

会議室に、短い間が落ちた。沈黙は躊躇ではない。ここで熱を入れた瞬間に、宣伝が始まってしまう。担当者の確信めいた返答に、大いに手応えを感じた。

告白

運命の手紙〜堺歩美さん物語5

改めての本格的な打診に対して返信。なんと今回の特集のきっかけとなった外舘美智子さんと親子だと言う事実。そういえば名字が同じだと、伝えられて初めて気がついた。

「実は、私たち親子です。私が17歳で家を出て、先日畑の手伝いに行くまで、全くの連絡をとっていませんでした。どちらかが死ぬまで母に会うことはないと考えていましたが、特集記事を読んだ時から動揺を隠せませんでした。

さらに狙ったかのように御社から打診をいただき、畳み掛けるように話が進んでいったことに驚いています。この手紙を書くにあたり、腹を決めなければと考えた次第です。どうぞよろしくお願いいたします。」

しばらく、返信の手紙を見つめていた。候補だと見立てていた方々が全て潰れ、ノーマークだったフレンチにまとまり、かつ美智子さんの娘さんだったなんて・・・。身震いがする。まさに運命の導きとしか言いようがない。

企画の起動

その夜、オフィスはすでに静まり返っていた。机に資料を広げ、今までを振り返っていた。企画の新たな起動だ。

これは単なる飲食店の記事ではない。1つの系譜。1人の料理人から、娘へと続く物語。料理の味だけではなく、生き方を描く企画。そう思った瞬間、頭の中で構図がはっきりした。

メモ帳を引き寄せる。ページの上に、新しいタイトルを書いた。『継がれる味』そしてその下に、小さく書き足す「母と娘の物語」。

これはいける。この企画が「絵」にならないわけがない。当日が楽しみだ。

#幸せ
#飲食店
#長女
#生き方
#フレンチ
#龍

本物の好相性〜堺歩美さん物語4

今回のこだわりは、美奈さん物語との矛盾はないか?です。あえて同じ文章を用いています。

美智子さんの特集企画

編集部の会議室を出た後も、私の頭の中には1つの言葉が残っていた。

「好相性」

今回の特集は、美智子さん。人や野菜との関係性の中で、凛と立つ人物として知られる彼女を軸に、「本質的な好相性とは何か」を探る企画だ。

特集にふさわしい人物を探すため、候補者を洗い直した。

・精進寄りで『整える食』を看板にしている料亭板前
・マクロビで陰陽を語れる料理教室講師
・薬膳・陰陽五行を前面に出す薬膳料理家
・発酵で『腸と暮らし』を謳う発酵マイスター
・・・・・・・・・

経歴だけ見れば申し分ない。実績もある。評価も高い。それでも、どこか決定打がない。取材メモを閉じながら、小さくつぶやいた。

「・・・違うんだよな」言葉にしにくい違和感。何かが欠けている。デスクに戻り、資料を広げた。人物・歴史・文化・伝統――思いつく限りの資料を引き寄せていく。しかし、どこかしっくり来ない。

伝統が背負うもの

ふと目に止まったのは、江戸時代から続く老舗の話だった。とりわけ美智子さんの重ね煮思想は、江戸時代から代々受け継がれてきたもの。伝統や格式をいかに承継してきたのか?美智子さんが生活に溶け込ませていく生涯で、オリジナリティはどれくらい発揮されているのか?どんな葛藤があったのか?

何百年も続く家。
継承される技術。
守られる格式。

その記事を読みながら、息を吐く。

パリの三つ星を歴代受けている老舗レストラン。
日本検察の有罪確定率99.9%。
名家や老舗企業の後継者問題。

どの世界でも、長く続くものには共通点がある。「失敗できない」という空気だ。

評価を落とせない。
伝統を傷つけられない。
前例を壊せない。

それは誇りであると同時に、見えない恐怖でもある。「型破り」とは、基礎から忠実に鍛錬してきた者にしかなし得ない。美智子さんがまとっている空気感は、明らかに温故知新を生き様として体現させているのだ。

本物の好相性とは

本物の好相性〜堺歩美さん物語4

ペンを手に取り「好相性とは何か?」メモ書き。そしてその下に、もう一行。「安心して同じ型に入れること?」自分で書いた文字を見つめる。違う気がする。もう一行書く。「型を壊しても成り立つ関係?」手が止まる。どちらが本物?

夜になり、オフィスはひっそりとしている。椅子にもたれ、天井を見上げる。

もしかして―――頭に浮かんだ考えを、すぐに否定しようとした。しかし消えない。《今探している枠の中に、本物はいないのではないか?》候補者が悪いわけではなく、この企画の問いに応えるものではない。そんな気がしてしまう。

PCを閉じた。このままでは特集が組めない。新しい視点を見出し活路を探さなければ。誰か、本当に「好相性」という言葉の意味を体現している人。美智子さんの温故知新という生き様に応えきれる人。

そう思った瞬間、スマートフォンが震えた。画面を見る。長女「育美」。また?連日は本当に珍しい。通話をタップする。

「もしもし?」

ほんの数秒の沈黙のあと、電話の向こうで育美の声がした。

その声を聴いた瞬間、胸に別の不安がよぎった。仕事の問題とは別の、もっと身近な――家庭の問題が、しめやかに深まり始めていた。

#幸せ
#長女
#龍
#薬膳
#好相性

間。〜堺歩美さん物語3

間。〜堺歩美さん物語3

長女 育美から

15時。原稿の赤入れを終えてコーヒーブレイク中、スマートフォンが震えた。画面に表示された名前を見て、思わず手が止まる。長女 育美から。

珍しい。通話をタップ。

「もしもし」

「ママ?」

外にいるらしい。風の音が混じっている。

「どうしたの?今、どこにいるの?横浜?」

育美はすぐに答えない。わずかな間を置いて返す。

「さっき、おばあちゃんから電話あった」

母だ。札幌から。

間。

「直美のこと、心配してた」コーヒーカップを机に置く。

「もうやるべきことは全部終わったよ。弁償もしたし、警察も店の人も初めてだろうって」

事実。電話の向こうで、育美がかすかに「うん」と言った。

「それ、直美にも言った?」

「言ったよ」

「そっか」

少し沈黙が流れる。育美が続ける。「あとね」

「うん?」

「昨日、直美からLINE来た」

なぜだろう?息がつまる。呼吸が2拍ほど止まる。

「なんて?」

育美は息を吸ってから言った。

「一言だけ」

間。育美にも言いにくいことがあるのだろうか?

「ママらしい」

「ママって、怒らないよね」

は?拍子抜け。間を空けて言うような重要なこと?育美には言いにくいことなの?なぜ直美は私にも言ったことを重ねて育美にも?

電話の向こうで、風が強くなる。

「それだけ?」

「うん」

また沈黙。育美の苦笑う気配。

「なんかさ」

「なに?」

「直美、怒られると思ってたっぽい」

・・・・・・・・。育美が続ける。

「でもママ、怒らないじゃん」

その言い方に、なんとなく引っかかる。

「怒る必要ある?弁償したし、初めてだし。怒ったって何も解決しない」

育美の渇いた笑い。「ママらしい」

その言葉が、心に雪が降り積もるように落ちた。

編集企画会議

17時。予定されていた会議。外舘美智子さんの特集記事の件。

「料理ページなのに、生活欄から反響が来てます」
「健康系の読者層も動いてます。創刊以来のダントツレビューです」
「『説明されていないのに腑に落ちる』って、同じ言い回しが多いですね」

想定外の反響に、どう特集をつなげていけばいいのか?ひとまずは、美智子さんに相性がよさそうな候補をあげてみることに落ち着いた。

直美との件は、今は切り離した方がいい。集中しよう。

正しいかどうか〜堺歩美さん物語2

私自身、正しいかどうか?かなり長期にわたって重要視してきた判断基準。

根底にあるものとは・・・。

触れない朝

警察署から帰宅した翌朝、次女 直美はいつも通りに起きてきた。平坦な声で「おはよう」

トーストを焼きながら返した。「おはよう。大学は?」

「行く」

・・・・・・。昨夜のことには触れない。触れても触れなくても、日常は変わらない。触れたところで、何のメリットがあるというのか?コーヒーを注ぎながら、考え振り返る。

謝罪は済んだ。弁償も済んだ。大学側への連絡も確認した。警察からの注意も受けた。今後同じことが起きないよう話もした。やるべきことは、すべて終わっている。何が足りないというのか。

無言の朝食後に

無言の朝食後、直美が机をバンと叩き席を立ちかけ、ふいに言った。「ねえ」

私は顔を向ける。

「ママってさ、本当に絶対に怒らないよね」

昨夜と同じ言葉。昨日言ったことを覚えていないのか?

「怒る場面じゃなかったから。しかも怒ったって何もいいことないじゃない」と返した。

直美は片側だけ口角を上げ、コーヒーカップの縁を指でなぞりながら、笑った。「そういうことじゃない」

正しいかどうか

その一言が、重々しく空気を変えた。長い沈黙が続く。

正しいかどうか〜堺歩美さん物語2

指を机でトントン鳴らしたり、体を震わせながら「ママって、いつも正しいよね」

うなずきかけて、止まる。正しいかどうかは分からない。ながらも、間違えないよう心がけてきた。

直美は続けた。「私が何考えてるか、訊こうとしないよね」。

言葉がすぐに出て来ない。聴く必要があるなら、訊く。今まで「訊いて欲しい」と言われたことがなかった。とはいえ何をどう訊けばいいのか、分からない。直美は、何を訊いて欲しいのか?

直美はそれ以上何も言わず、玄関を出た。ドアが閉まる音が、やけに大きかった。

助ける側の記憶

昼休み、札幌の母 麻由美に電話をかけた。昨日から今朝のことを話す。母は聴いてから―――

「あなたは昔から冷静だったものね」

悪い意味ではないと思う。

「歩美が慌てるところ、見たことないわ。」

私は笑った。「慌てても、仕方ないし」

母は少し黙った後、ポツリとこぼした。「お父さんが亡くなった時も、あなたは泣かなかったものね。」

あの時は、そうするしかなかった。「歩美はしっかりしてるね」父の言葉からも、私の強みだと受け止めている。

「助かったわ。あなたがいてくれて。」

母の声は、感謝だった。ながらもその言葉に、なんとなく些細な違和感が混じる。

《助かった》のか。私は、「助ける側」だったのか。

「分からない」

電話を切った後、机の上の原稿に目を落とす。文字は整っている。構成も問題ない。しかし朝の直美が言った言葉が、脳裏をよぎる。うまく切り換えきれない。

「私が何考えてるか、訊こうとしないよね。」

私は、聴こうとしていないのだろうか?それとも、どう訊けばいいのか、分からないのか?訊いたところで、何がどうなるのか?初めて思う。

今――、何を感じているのだろう?答えが出ない。理由も分からない。「分からない」ということがあるのだと、初めて知った。

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言葉につまる夜〜堺歩美さん物語1

言葉につまる夜〜堺歩美さん物語1

青天の霹靂

「娘さんが、万引きで保護されています。できる限りお早めに、こちらの署へいらしていただけますか?」

警察から電話があったのは、飯田橋の編集部で校正を確認している最中だった。

まさに青天の霹靂で、何の冗談かと意味が分からなかった。大学生の次女 直美は、静かで手がかからない子だと思っていた。

私は席を立ち、必要な連絡を済ませ、中央線に乗った。車内はいつも通り混んでいた。
誰も動揺していない。私も、動揺していないはずだった。怒りは湧かなかった。悲しみも、焦りも。

事実を処理する段取りを考えていた。怒るべきだろうか、と一度だけ考えた。まずは、店に謝罪し、弁償し、今後の手続きを確認する。それが私の役割かつ、正しい母親の対応。

私が立たねばならない

吉祥寺に着く頃、ふと、札幌の冬を思い出した。父が死んだあの夜も、私は同じように段取りを考えていた。母が抱きしめ号泣する中、私は泣かず立っていた。「歩美はしっかりしてるね」父の言葉が、今も体のどこかに残っている。

私は堺歩美、47歳。出版社の編集部長として、企画やインタビュー・校正等を受け持っている。新聞記者だった父の死から、12歳ながら長女として家族を守っていくと決めた。高卒で進学のため上京し23歳で結婚したが、夫の浮気で34歳当時に離婚。夫からの援助なしで、娘2人を育ててきた。

23歳の長女 育美は、高卒で家を出て今は横浜市在住。何をやっているのか詳細を理解しかねるまま、日本中を巡っている。母 麻由美は地元の札幌にて、もともとは戸建てだったが私の上京の際にマンションへ引っ越した。

父の死は表面的には事故死だったが、何か知られてはならない禁忌事項を突き止め、解明しようとしていたに違いない。死ぬ前の父は、よく「もし私が死んだら〜」と語っていた。だからこそ私が立たねばならないと、気を引き締めてきたのだ。

言葉につまる

警察署で直美は、ずっとうつむいたままだった。電車の中で想定した段取りに基づき対応。

帰宅後、沈黙の中「ママって、絶対怒らないよね。」

「は?」と、本気で不思議に思う。怒る必要があるだろうか?まず謝罪と再発防止だ。父が死んだあの夜から、段取りを優先するようになった。突如言われた返答には、思いがあっても言葉につまる。

答えを探す。叱る?諭す?慰める?どれが正しい?

直美は私を見ている。その視線の意味を考えているうちに、今日が終わった。

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#離婚
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#吉祥寺

揺らがない火〜外舘美奈さん物語23

揺らがない火〜外舘美奈さん物語23

3年連続の三つ星

10年後。

三つ星、3年連続。発表の日も、厨房で知らせを受け取った。前年と同じ方針と流れ。火入れの秒数も変えていない。発表の連絡が入っても、仕込みの手を止めなかった。

世界の料理誌が特集を組み、海外の若手料理人が研修を願い出る。本場パリの怪物職人と並び、「フレンチ基準を変えた料理人」として名が挙がっている。競い合う気持ちはない。評価の軸が違う。

昔の私なら、違った。星を意識した瞬間、皿を寄せにいっていた。審査員が来ると聞けば、火を強め味を濃くし、印象を作ろうとしていた。周囲は好ましく評してくれるかもしれないが、今振り返って感じているのは隠したかった黒歴史で、だからこそ成長の軌跡と言えるのだ。

今はしない。なぜか?星を得たいがための料理をやめたからだ。星が増えたのは、待つと切り換えた年からだった。

証明から決断へ

10年前。舌ガンの告知。医師は3人とも切除を勧めた。私は拒否した。無謀だったかもしれない。その夜初めて気づいた。

私は料理を「愛していた」のではない。料理で「証明」していた。

母への反発。
業界への対抗心。
自分への劣等感。

それを燃料にしていた。それでは、永続性がない。いつか終わりが来る。舌ガンは、私にとって方向修正だった。

肥やしにする

自立具現化コーリングを1つに集約するならこの問い。

「それは、あなたが決めたこと?」

答えられなかった。

三つ星も、世界一も、誰かに魅せるための目標だった。ようやくそこで初めて、自ら決め直した。世界一を目指すのは、《私があきらめきれないから》だと。

母の影響も、過去の折り目も、病も、材料にすると決めた。否定しない。肥やしにする。

そこから具体的に変えた。

・メニューの回転数を減らした
・客単価を上げた
・SNS露出を止めた
・星狙いの演出を外した
・仕込みを分業にした
・重ね煮野菜はじめ、世の調理法を研究した

結果、初年度は売上が下がった。批判も来た。仲間に見切られるかもしれない。それでも戻さなかった。星がなくなるかもしれない不安が襲ってきた。それでも決断を曲げなかった。

2年後、星が増えた。

4年後、三つ星。

揺らがない

今は分かる。星は「狙った料理」には来ない。軸を打ち重ねた結果である。3年連続は、驚きではない。再現性があるから。誰が来ようと、同じものをお客様へおもてなすのだ。

舌は戻った。だが戻ったから星が増えたのではない。舌へのプライドを保ちながら、「私の自主・自立・自律とは?」を追究してきたからだ。私の中核と向き合ってこれた達成感がある。

母から、毎週野菜が届く。仲間と定期的に畑の手伝いへ行くようにしてから、さらに団結が深まった。彼ら全員が、独立しても立派にやっていけるレベルにある。引き抜きの誘いもあるだろう。堅く一緒に関わり続けてくれていることが、本当にありがたい。

振り返って思うこと。10年前の私が恐れていたのは、舌を失うことではない。自分の人生に納得できないまま料理を続けることだった。だから向き合った、真剣に。だから今、揺らがない。

三つ星3年連続も、本場の怪物職人と並ぶ評価も、10年前からの積み重ねの延長。今まで道を作ってきた。今日からまた始める。これからだ。

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伝統を読み解く〜外舘美奈さん物語22

伝統を読み解く〜外舘美奈さん物語22

体に沁むまで

畑へ向かう朝。手帳を確認して、母の畑へ向かう予定を組んだ。手順だけを知りたければ、本を読めばいい。体感しなければ分からないことがある。最優先に考えている以上、何としても母の生き様を読み解き、核となる奥義を体現していく覚悟である。体に沁むまで。

土の感触を確かめる。水分はどうか、硬さはどうか、日照の角度や時間はどうだったか。収穫の熟度はどう判断していたか。目で、手で、体で読む。干し野菜の重さや層の並び方、鍋に落とすタイミング——それらはすべて、母の判断基準による。その微差の根拠とは、机上の空論では分かり得ないのだ。

戻した干し野菜を出汁に落とす。温度、浸す時間、置き方。それだけで、手順の意味が浮かび上がる。頭で考えなくても、体が先に理解する感覚。手順をなぞるだけでは決して辿り着けない深み。

母の背中を見ながら思う。手順だけを身につけても意味はない。本当に消化するためには、判断の理由や環境まで読み解く必要がある。母のやり方を自分の体に取り込み、消化し、自分の生き方でアレンジして初めて、意味が成立する。

深みの体現

江戸時代から受け継がれてきた我が家の重ね煮の伝統。母は他のことに興味が湧かなかったのだろうか——。ふと、過去の記憶がよみがえる。5歳の祝いに作ったケーキを否定され、17歳で家を出て以来、一切帰らなかった日々。私のような気持ちが湧いたことがないのか?

今、畑の端で黙々と草を抜く母の背中を前に、疑問が自然と手や目に流れ込んでくる。何にこだわり、何を取捨選択してきたのか——。言葉にする必要はないと言わんばかり。ひたすらに黙し、作業を続ける母の姿に、長年の重ね煮思想を示しているように感じられる。

全てが母の意思の現れであり、過去の折り目を消そうとする必要もない。理解しようとするのではなく、体に刻まれた判断の流れを感じ、吸収する——将来の輝く私になるために。

もともと寡黙な母。私も、所作から読み解いていきたい。今日、畑で確かめたことは、フレンチの現場で生かせる。「温度」「間」「火入れ」の感覚として、手に残る。それは単なる技術ではない。母の哲学を、体と手で理解した結果だ。

母が受け継ぎ実践している伝統を読み解くのだ。深みは、ここでしか得られない。これこそが、世界一のシェフへの道を、確かな手応えとして示してくれる。


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