寄り添えた?
私は今日も、「名前って、なに?」と書かれた小さなメモを手にしている。何度読み返しても、そこに込められた思いが、簡単な問いでないことだけは分かる。
優花の世話は、長年勤めてくださっていた家政婦さんに任せっきりだった。謝礼金として多めに支払ってもいたので、すっかり安心しきっていたのだ。「すべてはお金で解決できる」という思い込みがあったこと、今になって自覚した。本当に恥ずかしく情けない。
優花は生前、この問いにどれほど悩んでいたのか?自殺に至るまでに、何があったのか?何をきっかけに、この言葉が生まれたのか?本当は誰かに話せたのか?誰にも言えなかったのか?――
思えば私自身、娘の名を深く考えたことなんて1度もなかった。生まれた時、夫と相談して「優しい花のように」と名づけた。だが、優花はその名に、どれほど自分を重ねていたのだろう?
夫の死に際しても、「泣くんじゃない」と制していた。娘と2人で生きていく覚悟をあらわにする意味でも、泣いている場合ではないと自らに言い聞かせていた。いくら思い返せど「優花にどう寄り添ってあげたか?」が出てこないのだ。
私の名は、誰のもの?
そして、私の名――「芽衣子」はどうだ?
子ども時代から親の言いつけを守り、誰よりも「ちゃんとした娘」であることを求められてきた。政治家の家に生まれ、家名を汚さないよう、立ち居振る舞いを叩き込まれた。
自分の意思よりも「芽衣子」としてどうあるべきかを意識していた。
気づけば、私という人間は「名前を守る存在」になっていたのかもしれない。「手段を目的にしてはいけない」とさんざん多くの皆さんへ注意してきた。結局のところ、私自身が気づかずやらかしていたのだ。
私は「早乙女芽衣子」と呼ばれながら、一度でも「自分」として生きたことがあったのだろうか?
「早乙女芽衣子って、誰?」
私は、自分の人生を生きてはいない
胸の奥が疼き、痛む。あの子の「名前って、なに?」という問いは、私自身の問いでもあったのだ。私が問いへの答えを明確にできなかったから、娘にしわ寄せがいってしまったのだとしたら、私が優花を死に追いやったとも言えるのではないか?
自分に与えられた名前。その名のもとに重ねられてきた人生。周囲からの期待に応えるべく、何の迷いもなく政治家への階段を駆け上がっていった。私の生き方は、本当にこれでよかったのだろうか?いつの間にやら「はしごのかけ違い」をしていたのでは?
もし正しかったとしても、役割・使命・期待・肩書き――それらをすべて脱ぎ捨てた時、そこに残る「名」とは、いったい何だろう?私は、私をどう呼べばいいのだろう?今さらながらに気づいてしまった。「私は、自分の人生を生きてはいない」のだ。
その時、時計の音が止まったような気がした。部屋の空気が少しだけ変わった。それは何かが崩れる音ではなく、何かがほどけた感覚。「優花の死」という重く苦しい難題を突きつけられなければ、無自覚のまま役職につきながら死を迎えていたかもしれない。
娘の死が問いかけてきたものは、決して娘のことだけではなかった。私という存在の、名の根幹が問われている。娘のあとを追い逝くと決めていたが、やはり納得できない。今死ぬのは絶対にダメだ。死ぬか生きるかを決めるのは、娘が残してくれた問いへの区切りをつけてからにしよう。

私は今日、初めてノートを開いた。白紙のページに、ペンを置いたまま手を止める。何かを書くのではない。「書こうとしている自分」に、じっと心の耳を澄ませている。
答えはまだ、出てこない。けれど、この問いの中に立っていることが、今の私には何よりの生きている証なのかもしれない。