富美子さんは、日本舞踊の世界でTV出演するほどの名人。そんな彼女の変容を、まずは声から表現。
変化の共有
真紀子さんとのZOOMでの再会は、思った以上に自然だった。画面の向こうには、変わらぬ穏やかな眼差し。けれど、私の中には明らかに、先日とは違う「何か」が育っている。
「お久しぶりです、富美子さん」 「こちらこそ、ありがとうございます。なんだか、不思議ですね・・・。またこうしてお話しできることが」
言葉を交わす内に、心が柔らかく解けていく。今の私は、もう他人行儀ではなかった。
「実はあのセッション以降、周囲の人から『声が違う』って言われるんです」
思いがけず、自分からそんな話を切り出していた。口にした瞬間、私自身が一番驚いていたかもしれない。
「やっぱり!それ、私も感じました」 真紀子さんが、少し身を乗り出すように言った。 「どこか柔らかく、でも芯があって。なんというか、伝えるための声じゃなくて、伝わる声って感じがして」
伝える声と伝わる声。 なるほど、そんな違いがあるのかもしれない。
2つの名の狭間で
「正直、美雅としての私が正解だと思い込んできました。芸名の方が評価されやすいし、弟子や関係者との関係もあります。でも今、富美子でいることに、変な抵抗感がないんです」
「分かります。名前って、ただの識別情報じゃなくて呼ばれ方なんですよね」
呼ばれ方──────。 それは、自分がどう在ろうとするかに直結する。
芸名に生きることは、ある意味では「課せられた責任」への義務でもあった。 今の私は、富美子という「命名」に立ち返ることで、責任のためではなく私のために声を出せるようになっていた。
「声が変わったのではなく、ようやく戻ってきたのかもしれませんね。先生もよくおっしゃるけど、『正確に言うと変わるわけではなく、本来の状態に戻る』ですから」 真紀子さんがそう言った時、胸の奥がじんわり温かくなった。
「戻ってきた・・・・・。そうかもしれません」
思えば、いつからだろう。誰かの期待に応えようと、いつも「〜しなければ」で言葉を発していたのは。今は、自分の内なる声が出ようとしている。誰かのためではなく、私の中から生まれてくる声。富美子という名に宿っていた、まだ使われていなかった声。
今、ようやく───思い出したのだ。
娘からの電話
真紀子さんからのメールの余韻に包まれていたその夕方、携帯電話が震えた。着信画面に浮かんだのは、「雅子」。娘からの電話だった。
「もしもし、お母さん?週末の法事のことで連絡したくて」
そうだった。亡き主人の十三回忌が近づいていたのだ。
「ありがとう、助かるわ。場所は去年と同じお寺?」
「うん、叔父さんたちとも連絡済み。あとね・・・、声が何か違うよ」
「え?」
唐突に言われた言葉に、思わず声がつまった。
「なんていうか・・・柔らかいっていうか、ずっと遠くで話していた声が、急に近くなったみたいな。なんか不思議」
──やっぱり、聴こえていたのか。
娘にまで伝わっていた声の変化。 龍先生が言っていた周波数の話が、急に現実味を帯びてきた。
法事の準備と家族の気配
法事の準備に追われながらも、静かな確信が根を張っていた。仏間に飾る花を選ぶ時、雅子が小声で言った。
「お母さん。あのさ・・・もしかして、何か始めようとしてる?」
「どうして?」
「雰囲気がね、変わったっていうか。前はいつも張りつめてたのに、今は、自然体って感じがするの」
娘の観察眼には舌を巻く。あえて言葉にしなかったが、心のどこかで「気づいてほしい」と願っていたのかもしれない。
「今ね、自分の名前と向き合っているの」
「えっ?『富美子』?」
「そう。美雅じゃなくて、富美子として生きてみようかと思って」
娘はしばらく黙っていたが、ふっと微笑んだ。
「いいと思う。美雅のお母さんも好きだけど、富美子って呼ぶと、なんか温もりを感じるよ」
受け継がれてきたもの
3代続く舞踊の家系。その流れに乗るように、15歳で名取となり「美雅」を襲名した。祖母の美麗(みれい)、母の雅麗(まれ)、そして私 美雅(みやび)。名前にまつわる意味と歴史。それは誇りであり、重荷でもあった。
「舞いの美しさに、心の雅を重ねる」──それが、美雅に込められた意味だと母は言っていた。「美雅」という名には、かつて込められた想いがあった。けれど今、「美雅」に込められた願いを、託された使命として生きていきたい────。
今、私が迎え入れようとしているのは、役割だけではない。名前の意味に宿る本質、命の音(ね)そのもの。富美子という名前の声は、今ようやく私の中に根づこうとしていた。やはり私には、龍先生のサポートを受けた方がいいのだろう。真紀子さんが尊敬するなら、きっと私にもそうなる未来があるのだろう。
「これでいい」の奥へ

法事を終え、親族と別れた後の帰路。
「ねえ、お母さん」
雅子がぽつりとつぶやいた。
「なんかさ・・・今日のお母さん、昔に戻ったっていうより、初めて会った感じだった」
「それって、いい意味?」
「うん。なんか、ちゃんと一人の女性っていうか。お母さんがお母さんである前に、『富美子さん』っていう1人の人間だったんだって、今さらだけど思えたの」
富美子は、ただ頷いた。──そう。今、私はようやく「私自身」に還ろうとしているのかもしれない。その実感が、心地よく胸を温めていた。