素晴らしい○○な素養があります
今まで少なくも20万人超のお名前と向き合ってきたと謳ってきました。常々感じる点の大きな1つです。
カリスマ性はじめ「あなたには素晴らしい○○な素養があります」とお伝えしても、不可解な表情やあからさまに拒否されたことは数知れません。よくも悪くも、ご本人のセルフイメージ通りに具現化していきます。「私は●●だ」と認識しておられるなら、時間を経て確実にその通りになっていくのです。
大半の場合経験から必要だと思い込み、努力によって克服して身につけたことを、「得意分野」と称しておられる方がとても多いのです。案外、現状では不得手だと思い込んでおられることの方が、「天性的素養」だったり。
主には名前の画数を根拠に観させていただいていますが、基本的に才能発揮につながる表現にこだわっています。名刺交換等で交わす言葉が多かったため、即実践しやすいメッセージにこだわっています。欠点を並べ上げるよりも、成長促進につながる解釈をした方が、メリットは段違いです。
表面的善人
ある50代男性、優しいと多くの定評があります。しかし当のご本人は、「優しい」に不快感。評されるほどにご自身を呪いたくなると吐露されていました。
私にも似たような経験があるので、とても共感しました。例えば電車で席を譲った方がいい場面。かなり疲れていて、ずいぶん並んでやっと座れました。そこでひょっこり現れ目の前に立った腰が曲がったおばあちゃん。ご本人の良心基準の高さから、「席を譲らなければならない」という情動が湧いてきます。結果、「彼は優しい」となります。
しかしこの場面におけるご本人自身は、自発的に「席を譲りたい」とは全く考えていません。結果、「またやってしまった」となります。《表面的善人》と名付けました。
お分かりでしょうか?「〜なければならない」が生み出す不和。《表面的善人》によって溜め込まれる感情エネルギーは、疾患はじめ様々な弊害をもたらします。
たとえまちがっていても
たとえまちがっていても、いかに思いやっているかが重要だとみなしています。動機いかんによっては、お伝えすることにちゃんと価値があるのです。受ける側が100%である以上、与える側の価値観はどうでもいいのです。
ある日「あなたにはクリエーターとしての素養がありますね」と、お名前を根拠にお伝えしたことがあります。しかし数え誤った観方をしており、訂正できない状況となっていました。
数年後、ある別の機会で再会。なんと当時お伝えした一言を鮮明に覚えてくださっており、作家として大成したことを聴きました。「あの時の一言が、私を踏み出させてくれました」と大変感謝していただき、数えまちがえた嘘だったため恐縮でした。今は「誤ってお伝えしたのではなく、ご本人が潜在的に欲しており、私がアンテナ受信してお伝えした」と解釈しています。
お互いを認め合う
今でこそ「話していると、気持ちが和らぐ気がする」等評していただける機会が増えてきました。過去の私からはとうていイメージしようがなく、自衛官を退職後何度も結果を出せずとも営業職に挑み続けてきた成果だと感じています。まだまだ発展途上で、さらに磨いてまいります。
「最後のチャンスだ」と懸けたフルコミ職で生活できなくなった時、生活できないながらに気力が絶え果て、強烈な絶望感と向き合いました。だからこそ今、【お互いを認め合う】ことがいかに重要かを痛感しています(掃除ボランティア当時の「ゴミから教わったこと」)。
どうしても死ぬまでに《理想を讃えお互いを認め合う》感動で満ち溢れた世界を創り出したいのです。あきらめきれません。
あなたが思い描く理想世界とは?