
書いていて、私ももどかしいです。答えを言えばたわいもないこと。私の中で当たり前だったことが、多くの皆さんには全く違っておりました。
もどかしさと向き合う
真紀子さん
問い続けることの大切さは理解できた。とはいえ、問いを持ち続けるだけで本当に答えにたどり着けるのだろうか?
「自己対話にこそ答えがある」
龍先生は言った。だが、私はまだ答えを見つけきれない。まるで霧の中を歩いているようで、もどかしさが募るばかりだ。たとえようのない不安や恐怖が込み上げてきた。
『答えは小学5年生で習う、ごくありふれた言葉』
このヒントが示すものは何なのか?単純なことだろうに、なぜ気づけないのだろう?ノートに書き出してみても、言葉が浮かんでは消えていく。
私は何を求めているのか?
私は何のために問い続けているのか?
どうすれば、このもどかしさを超えられるのか?
問いを投げかけるほど、胸の奥がざわつく。助けて欲しい。何を?誰に?どうすればいい?
龍先生の問い
その夜、再び龍先生と話す時間を持った。
「真紀子さん、このもどかしさをどう感じますか?」
「とても苦しいです。問いを持ち続けることが大切だと分かっていても、答えが見えなくて・・・。」
「そうですよね。もしかしたらそのもどかしさこそが、答えへとつながる鍵なのかもしれません。」
「え・・・?」
「私たちは、すぐに答えを求めてしまいます。もし今答えを知ろうものなら『なんだ、そんなことですか』となります。本当に重要なのに、相応の価値を見出せていないんです。本当に大切なものほど、一瞬で手に入るものではありません。答えは、熟成されるものです。」
「熟成・・・。」強烈な余韻を感じた。
「そうです。ワインのように、時間をかけて深まっていくものもある。今は、答えがまだ形になっていないだけかもしれません。」
見え始めた光
龍先生の言葉を聞きながら、私はふと、過去を振り返った。
人生の中で、確信を持てた瞬間。
結婚。店を開いた時。子どもたちを育てながら、新しい挑戦を決めた時。そこにはいつも、「私が決めた」という確かな実感があった。もしうまくいかなかったとしても、「それでもいい」と明確な覚悟があった。
「もしかして・・・?」
その瞬間、心の奥で何かが動いた。
「私が本当に求めていたもの・・・?」
その答えは、もしかしたら「受け取ること」なのかもしれない。私はずっと、何かを求め続けてきた。もし「求める」ことばかりに囚われていて、すでに与えられているものを見落としているとしたら?求めるだけでなく、受け取りきれた時、ようやく本当の答えにたどり着くのではないか?
気づきかけた何かを、形にするために、私は再びノートを開いた。
今度こそ、言葉にできるかもしれない。