
「藤間 美雅」を喜んでいた少女へ
「どうして、今さらそんなことを?」
鏡の前で化粧を落としながら、つぶやいた。 ながらもその問いは、ずっと私の中にあったものだ。
龍先生との面談の最後、ふいに提案された言葉── 「もしよろしければ、過去の富美子ちゃんに手紙を書いてみてください。誰のためでもなく、富美子さんのために」
当初は戸惑った。でもやってみようと思った。 もう一度、過去の私と向き合ってみたかった。理由は、龍先生とのセッションにおける実感。「過去も未来も、結局は今現在の解釈次第」であること、身をもって理解してしまった。
セッション前に言われていた「ゆでたまごから生タマゴへは戻れないように、元の状態に戻れなくなる」の意味がとてもよく分かる。「ルビンの壺」のように、いったん見えてしまったら、見えない状態には戻れないのだ。
龍先生は、今まで何をしてこられたのだろう?なぜこんな気づきを得て素晴らしいものを作っていながら、今まで無名だったのか?不思議でならない。
「15歳の富美子ちゃんへ」
あなたは、あの時から不安だった。「藤間 美雅」という名を授かって、誇りと同時に戸惑っていた。皆が拍手してくれても、あなたはまだ舞の意味すら分かっていなかった。それでも、あなたは笑っていたね。「大丈夫よ」って、無理にでも言えるようにしてきた。
それが「藤間 美雅」という名の演技の始まりだった。でもね、私は知っているの。あなたの笑顔の奥に、ずっと「藤堂 富美子」が泣いていたこと。
日本の検察では検挙されてしまったら、99.9%有罪確定されてしまう。相応に絶対に間違ってはならない重圧に苛まれることになるという。あなたも「藤間 美雅」という名を授かり、3代続いてきた流れと日本舞踊界の重圧に悩み苦しんできたよね。
本当に苦しかったよね。キツかったよね。仲が良かった、継承を拒否した姉からの嫉妬混じりの目線や仕打ちにも耐えてきた。多くの皆さんからの期待に応えるため、薄氷の上を歩くような心境だったね。周囲の期待に応える私になるしか、道が思いつかなかったよね。
本当の富美子ちゃんは、何がしたかったの?どうして欲しかったの?今まで分かってあげきれなくて、本当にごめんなさいね。まだ間に合うなら、富美子ちゃんと感動を分かち合いたいの。どうすればいいかしら?
手紙を書くことで、目を覚ます
ペンを持つ手が止まらなくなる。 あんなに曖昧だった記憶が、書くことで息を吹き返してくる。自動手記という言葉を聞いたことはあったが、まさか私が体験することになるとは考えてもいなかった。
「名前の中に、誰も知りようがない涙があった」
その言葉が、自然と浮かんできた。ハッキリ認めきれたことが、初めて「藤堂 富美子」としての希望につながっていく。
私は、私を裏切らない。 私は、私を置いていかない。過去を消したいとは思わない。 けれど、過去を意味づけたいと思っている。「過去の過ちを揉み消そうとするなんて、もったいないですよ」と熱く語っていた龍先生の言葉の意味を、スルメのように噛みしめている。
未来を迎えにいく準備
「名を守る生き方から、名を育てる生き方へ」
富美子ちゃんとの対話の中で紡ぎ出せた感覚。今まで「藤間 美雅」という名を守るために必死に生きてきた。これからは、富美子と美雅、共生共栄の道を歩んでいこう。富美子も美雅も、どちらも私。よろしくね、私。
まるで更新するための祈りのようだった。
「ありがとう、美雅。ありがとう、富美子」
そうつぶやきながら手紙を閉じた。 まさに富美子として新たな一歩を踏み出す前の、小さな儀式になった。
小さな儀式のあとに
手紙を書き終え、フーっと一息ついて立ち上がった瞬間。
仏間から「カタン」と音が聞こえた。見に行くと、主人の位牌が倒れている。
「えっ・・・・・・・・?」
一瞬、息が止まる。風もない。揺れもない。
ただ、位牌だけが倒れていたのだ。
「あなた・・・・・・・見ていてくれたの?」
涙が込み上げる。なぜかその瞬間、「もう演じなくていいよ」という声が聴こえた気がした。「藤間 美雅」として生き抜いてきた私を、ようやく「お疲れさま」と言ってもらえたような────────。不思議な安堵感が、胸を満たしていった。