定休日の非日常
定休日の朝。東京駅。昨晩、スタッフに最低限の伝言だけ残した。任せる、というより——任せられる範囲だけを、淡々と切り分ける。
新幹線の中で、胸の奥が跳ねる。「帰る」と言った。言ってしまった。それで現実化している。だから今日は、余計な言葉を増やさない。畑を手伝う。それだけ。
電車の窓に、自分の横顔が映る。昔の顔じゃない。なのに、昔よりも逃げ腰な自分がいる気がして、腹の底が無性にざわつく。
お迎え
改札を出ると、父が先に立っていた。背は少し縮んだ。けれど、立ち方は変わらない。
「・・・来たな。面影はちゃんと残ってるな。すぐに分かったよ」
「うん。畑、どこから?」
父は、言いかけて止めた。
「・・・手、洗ってからにしろ。朝露がまだ残ってる」
車の中は、必要な会話だけが続いた。畑の段取り。腰の調子。最近の天気。母の話題は、出ない。出さない。——出る前に、父の方が話題を切り替える。
家が見えた瞬間、胸の奥が少しだけ冷えた。冷えたというより、熱が一段落ちた。火を弱める前の、あの感じ。
土の匂い

畑に出ると、土の匂いが先に来た。懐かしい、ではない。正しい匂いだと思った。理屈じゃなく。土の匂いが、考える前に膝を折らせる。
母は、すでに端で草を抜いている。背中しか見えない。あの背中は、ずっと記憶の中で固まっていたが、今日は動いている。
「・・・遅い」
声が飛んできて、私は手袋を受け取った。謝りもしない。言い訳もしない。かわりに、畝に膝をついた。
草を抜く。土をほぐす。根を切らないように、ゆっくり引く。作業は単純だ。単純なのに、呼吸が整っていく。私が厨房でやっていることと、似ている。余計な確認が消えていく感じ。
母が、隣の畝へ一歩ずれた。それだけで、距離が変わった。近づいたのではない。重ならない位置が、自然に決まった。
「手、速いね」母が言った。褒めでも評価でもない。観察に近い。
「店で、こういうのもやるから」それだけ返した。
重ね煮も、特集も、封書も言わない。言った瞬間、畑が別の場所になる気がした。
台所の蓋
昼前、母が言った。「1回、上がれ。水飲め」
台所に入ると、鍋が火にかかっていた。母は迷いなく、火を弱め、蓋をした。蓋が閉じる音が、やけに響く。——母においては淡々と、日常の中で決まる音なのだろう。
湯気が、蓋の縁から薄く漏れる。自然とその温度を見ている。嗅いでいる。料理の言葉じゃないのに、分かる。幼い頃に、見ていた風景。体に沁み込んでいた記憶がよみがえって来る。
母は、お茶を置いて、私の手元をチラッと見た。爪の間の土。指先の傷。
「無理すんな。今日は帰るんだろ」
「うん。夜、店がある」
「そう」
それで終わった。会話としては短いながらに、妙に減らせないものが残った。
帰り支度の時、母が小さな瓶を差し出した。梅でも味噌でもない。干し野菜。
「持ってけ。店で使うなら、好きにしろ」
私は受け取って、頷いた。礼を言う言葉が喉まで上がったが、形にしなかった。言った瞬間、「和解の始まり」みたいな匂いが混ざるのが嫌だった。
手順だけを進めた
駅へ向かう車の中、父がハンドルを握ったまま言った。
「・・・母さんな。最近、——」
そこで、父は止めた。止めたこと自体が、情報だった。
私は窓の外を見たまま、「うん」とだけ返した。「聴く準備がある」という意味の、最小限。
改札の前で、父が言う。「また、畑。手が要る時は言う」
「うん。店の定休日なら」
電車が動き出す。もらった瓶が、膝の上で揺れる。
まだ言っていないことは山ほどある。でも、今日の私は、逃げなかった。宣言もしなかった。——手順だけを進めた。
店に戻れば、また火を入れる。けれど今夜は、包丁より先に、土の匂いが手に残っている。