記憶の中の私
Kindleの電源を落としたあと、私はしばらくその場に座り込む。深く息をついても、胸の奥の重さは解けない。
娘が読もうとしていた――『自分の名前を愛する力』。Kindleの履歴によれば、前書きを読んだ時点で止まっている。何を思い、なぜそれを選んだのか?答えは届かない。

仰向けでぼんやりと天井を見つめながら、ふと1つの記憶がよみがえってきた。――あの子が、まだ幼稚園に通っていた頃のこと。
「どうして、ゆかって名前なの?」
夕方、台所に立っていた私に、優花が華奢(きゃしゃ)な声で問いかけてきた。何か返したはずだが、何と答えたのか、どうしても思い出せない。記憶の中の私は、まな板と向き合っていた。夕食の献立のことしか頭になかった。問いかけの意味も、その重さも、深く受け止めていなかった。
今、その上の空だった自分の姿が、情けなくてたまらない。もしあの時、ちゃんと答えていれば、もしあの子の目を見て、「あなたの名前はね〜」と伝えていれば――私たちは、もっと違う形でつながっていたのではなかろうか?
問いの痕跡
娘はずっと、自分の名前の意味を知りたがっていたのかもしれない。そして、私がそれを語らなかったことを、どこかで悲しく思っていたのかもしれない。だからこそ、「名前って、なに?」という問いが、ノートに刻まれていたのだ。私の胸の内にも、同じ問いが残されたままになっている。
「名前とは、誰かに与えられたものなのか?」
「自分で選び取るものなのか?」
「それとも、背負うものなのか――?」
どの答えも、まだしっくりこない。だが、分からないまま問い続けることが、今の私にできる唯一の誠実だと思えてくる。あの子の問いの痕跡を、私は心の中でなぞるように抱きしめている。それは、娘の声なき声でもあったのだろう。
残された「問い」
その晩、一字一句、読み終えた。閉じたKindleを胸に抱え、しばらくの間、呼吸さえままならなくなっていた。あの子が、こんな本をダウンロードしていたこと。その事実が、ただの偶然ではなかったと今なら分かる。
私は、この本を通じて初めて「名前」というものに真正面から向き合った。政治の世界で何百、何千という名を見てきたはずなのに、「名前とは何か」なんて考えたことは1度もない。
それが、ここには書かれている。「名前とは、存在を受け止めるための最初の肯定である」「名前を愛する力とは、自分を信じる力でもある」と。
――優花は、これを読もうとしていた。誰にも言えなかった迷い・苦しみ・不安。そのすべてを、この一冊にゆだねたのかもしれない。けれど、おそらく前書きで力尽きていた。すでにあの子の心は限界だったのだろう。
私は今、読んだ。読み切った。その上で初めて、あの子の「名前って、なに?」という問いに、心から向き合いたいと思った。
この問いには、答えはないのかもしれない。でも、私はようやく、問いとともに生きていこうと決めた。あの子が残してくれた「問い」こそが、今の私を動かしている。
この本の著者、龍先生に興味が湧き、サイト等検索してみている。SNSの限りには、アヤシイ人物ではなさそうだ。ひとまずは、Facebookのフォローをしてみよう。私も、自分の名前について、問うてみたくなった。