様々向き合わさせていただき、「プロフェッショナルかつストイックに追究してきた方との相性がいい」とピントが合わさってきました。
佐藤真紀子さん
田中健太郎さん
藤堂富美子さん
早乙女芽衣子さん
に続く、5人目の物語。
没頭してきた40年
「お疲れ様〜」
すべての役割を終え、いつもなら充実感とともに帰宅。今日は言いようのない違和感がある。意味不明な不安と焦燥感が襲ってくる。昨日と今日の私は、明らかに何かが違っている。何が分からないのかが分からない。しかし確実にマズいことが起きているようだ。
私は外舘 美奈(とだて みな)、57歳。港区麻布十番で腕を振るうフランス料理人。皿の上に描かれる一皿は、芸術と称され、予約は2ヶ月先まで埋まっている。日本料理人だった母に反発し、中卒後に単身フランスへ。そこで脇目も振らず一心不乱に料理の世界へ没頭してきた40年。
厨房の熱気、スタッフの声、火の音。そのすべてが、私にとって情熱であり、生きがい。感情は、邪魔だ。皿に乗せるのは技術であり、魂の結晶であり、メッセージだから。去年『プロフェッショナル〜私の流儀』(NHK)からの出演依頼があり、そこで不動の信頼を得た。
店から徒歩3分の1ルームにて、言いようのない違和感を抱きながらも、明日に備えて寝る。料理の世界で生きてきた私には、恋愛とは無縁だった。誰かを好きになるよりも、お客様へ料理を通じて感動を提供することが、私の喜びなのだ。
S.ジョブズが着ている服装は黒のタートルにジーンズだったという話に同感である。料理のことしか考えたくない。服装なんて厨房に入れば着替えるんだから、何だっていい。プロフェッショナルの料理人として、世に恥じない生き方を全うしたいのだ。
違和感の正体

数日後、仕込みを終え、心がザワっときた。スープの味が、分からない。塩も、香りも、温度も、ちゃんと揃っている。今まで塩1mgの違いを見極めきれていた。その精度の感覚への迷いがある。
予約していたランチ後の休憩時間に受診。検査後の診断で言われたショッキングな一言。「味覚に麻痺障害がありますね。味蕾の塩味の神経に異常があるようです。精密検査をお勧めします。」まさに茫然自失な状況。言葉が出てこない。顔面蒼白な感覚がよく分かる。
ディナーでは、スタッフの誰にも気づかれないよう振る舞えた。しかし心の中は、ものすごく動転している。スタッフが優秀なのが幸いだ。今まで咀嚼して詳細に教え施してきただけに、皆立派に育ってくれている。
今までツラくキツい時ほど、笑うよう努めてきた。「大丈夫。きっと大したことはない。すぐに元に戻るよ」と言い聞かせて、どうにか閉店できた。自宅まで徒歩3分だが、すぐに帰りたい気分ではない。コンビニで大好きなカシューナッツとワインを買って帰宅。
終わりの始まり
精密検査の結果が出て、再受診。なんと・・・・・・・・・舌ガン。ステージ2だというのだ。医師からは総合病院へ紹介状を書くからと、手術による切除を勧められた。舌を切るということは、味覚の精度が落ちないわけがない。それだけは絶対にイヤだ。
医師からは「味覚が落ちようとも、生き延びられるんだからいいじゃないですか」と返答。いくら言っても覆りそうになかったので、保留させてもらうことにした。舌を切るということは、料理人としては生きられないのではないか?約40年、料理人として生きてきた。他の人生が、どうしてもイメージできない。
夜の厨房。誰もいないはずなのに、火の音が耳に残る。私は洗い場前で立ち尽くしていた。初めて肉担当になれた記念にと、師匠からもらった牛刀を見ながら、涙がこぼれた。
「なぜ私が?」
今まで健康には極めてこだわってきた。野菜を多く摂り、添加物は控えるよう細心の注意を払ってきた。出かける時も弁当持参。売っている食材なんて信用できない。「◯◯がいいよ」と言われれば、即試してきた。水にもかなりこだわり、浄水器には最高の本格派を組み込んでいる。
「なぜ私が?」
私には志がある。私の店を世界一のフランス料理店とすること。そのためのミシュラン5つ星は通過点だ。NHKからの出演依頼も高じて3つ星まで来れた。料理に私の全人生を懸けてきたのだ。こんな道半ばにして、あきらめきれるわけがないだろう!
「なぜ私が?」
どうしても解せない。納得できない。ガンだなんて、全くもって信じられない。私に限って、そんなことあるわけがないのだ。セカンドオピニオン、サード・・・と試みるが、同じ診断結果。舌ガンという事実、受け入れざるを得ない。しかし手術は絶対にイヤだ。とはいえ、手術するしかないんだろうか?
理解できない、納得できないと言いつつも、症状は進行しているのだろう。「夢であってくれ」「朝目が覚めたら治っている」と願いながら、気がついたら1人でワイン1本空けていた。どんどんまぶたが重くなっていく。