ある側溝掃除にて
今朝ある経緯から、グレイチング(側溝)掃除をしていました。ここで約7m区間、水が流れずゴミを掃けない状況。大きな置物の下にあり、今まで側溝があることさえも知られていませんでした。
ゴミをいくらすくおうとも、大半は悪臭を放つ水です。水をどうにかしなければ、キレイになることはあり得ないといった具合でした。ながらも、道具はスクレイパー(皮スキ)と小ちりとり。毎月の「掃除に学ぶ会」における街頭清掃では、 汚泥はじめゴミを回収していただけます。それがすごくありがたいことだと、身に沁みました。
継続するうちに、排水口にさしあたり、一気に流れ出てくれました。排水口がゴミに埋もれ、機能を果たせていませんでした。一点の穴が渦に変わり、水がすごい勢いではけていく様には、いたく感動しました。
すごくスッキリな、まさに宿便を出しきった解放感!以降は、スムーズに進みました。
本来あるべき状態とは?
さえぎっていた水に対して、本当にジャマで憎しみを抱くような心境でした。振り返ってみれば、私に気付きを与えんがために存在していたと省みれ、愛しく思えてきます。
水だって、私に恨みの気持ちを持たせたいがために存在しているわけがありません。何らかの理由があるにも関わらず、水の立場で接しきれなかったことが、イライラの発端となりました。
水は、なぜ悪臭を放っていたのか?もし私が、排水口の機能を麻痺させたゴミや悪臭放つ水の立場なら・・・・・・・・。長期にわたって、誰にも気づかれず存在していることに、何を思うでしょうか?彼らのメッセージだったと、感じてやみません。
毎月新宿の掃除研修で、側溝のヘドロと向き合うことに喜びを感じています。悪臭と治安の悪さが比例関係にあると、とても納得していますが、あなたにはいかがでしょうか?街の治安と一緒に、私の心も浄化されていると痛感しています。
今回のゴミや水においても、同じようなことが言えるとみなしています。本は、誰かに読んで欲しいがために存在しています。音楽は、誰かに聴いて欲しいがために存在しています。何においても、存在価値がないモノなんてありません。
結果的にゴミとみなされてしまった彼らは、本来どう処理して欲しかったんでしょうか?どんな生き様を望んでいたんでしょうか?どうすれば、本領発揮できたと喜べるのか?1日想いを馳せながら、時を過ごしました。
掃除の師匠である、鍵山 秀三郎 氏を活模範として、精進を重ねています。いかに鍵山先生が素晴らしくとも、生まれた時点で聖人君子だったわけがありません。鍵山先生だに、マジメにコツコツ積み重ねていく中に、似たような経験を味わって来たんじゃないか?と、追体験させていただけていることを嬉しく思いました。