本当の言葉〜早乙女芽衣子さん物語8

問いの解像度

夜、久々にぐっすり眠れた。泣いたあと、心は静かで穏やかだ。感情が嵐のように吹き抜け、今は凪のよう。泣けたことで感情解放できた手応えがある。「健全な精神は、健康な体から」とよく言われるが、まさにそのとおりだと実感している。

朝5時。目が覚めて、しんと静まり返ったベッドの上で、天井を見つめながら考えている。

「私は・・・何を分かっていたのか?」

娘の名前――優花。名づけたのは私だ。でも、その名前に込めた意味を、自分の口からちゃんと語ったことがあっただろうか?誰かに訊かれて、答えたことはあるかもしれない。でも、あの子に向かってまっすぐに「あなたの名前はね」と話した記憶を、どうしても思い出せない。

穏やかな静けさが、なおのこと苦しい。答えがないからではない。問いの解像度が、水アカがついた磨りガラスのまま。意識はハッキリしているのに、「名前ってなに?」という問いの輪郭だけが、いつまでも胸の奥に残り続けている。まるで、娘が今も問いかけてくるように。

本当の言葉

ベランダに出てみた。空気は冷たく、晴れて澄み渡っている。頬を撫でる心地よい風に、ようやく深く呼吸できた気がする。

「私は、あの子に何を伝えたかったのだろう?」

ずっと「正しさ」に縛られて生きてきた。政治の世界で、たった1回の失言で命取りになる場面を何度も見てきた。だからこそ、いつしか言葉を選ぶ癖がつき、感情を飲み込むようになっていたのかもしれない。

本当の言葉〜早乙女芽衣子さん物語8

あの子は本当の言葉を求めていたのだ。取り繕わない、傷つこうが悩んでいようが、絶対に揺るがない魂からの言葉。分かっていなくても、分かろうとする姿勢。それを、ずっと見せられなかった。

いなくなった今、優花にかけてあげたい言葉を探すも、一向に出てこない。何を言ってもうわべだけの、納得には遠く及ばない気がしてならない。

再出発の教本

Kindle端末は、今もリビングのテーブルに置かれている。『自分の名前を愛する力』あの本は、もはや「読み終えた本」ではなくなっていた。

娘が残した問いを、私が今ようやく引き継いだという証。私にとって『自分の名前を愛する力』は、娘の遺書ではない。再出発の教本なのだ。

泣いたことも、痛んだことも、決して無駄にはしたくない。あの子の問いとともに、もう一度、人生を考え直していく。名前を、そして私自身を。

考えに考えてみて分かったことがある。いくら考えても、現状では優花への言葉を紡ぎ出すことは無理だ。龍先生に助けを求めてみてもいいのではないか?と考え至ってきた。

「龍 庵真 様

はじめまして。
先生の著書を読ませていただき、大変感動しております。
困っていることがあり、相談させていただけませんでしょうか?
よろしくお願いいたします。

早乙女 芽衣子」

メッセンジャーで送ってみた。この送信ボタンを押すのに、勇気を要した。私は今、問いを抱えたまま進もうとしている。あの子の問いに、今度こそ私なりの答えを生きていくために。

最高の償い〜早乙女芽衣子さん物語7

最高の償い

読み終えKindleを閉じた後も、私は長い時間、身動きできずにいる。この本が、娘 優花にとって、どれだけの意味を持っていたのか――その想像だけで、胸が締め付けられる。「もう少し、もう少しだったのに・・・」あまりにいたたまれない。

タイトルは『自分の名前を愛する力』。私は、長年「名前」に無関心だった。政治の世界で、何千という名前と向き合ってきたはずなのに、実の娘の名前すら、深く受け止めていなかったのだと、今になって痛感している。実の娘と向き合えていないのに、県知事として務まるわけがない。やはり知事を辞めて正解だったと感じている。

当初は死んで詫びることがイチバンだと考えていたが、娘の私を通じて、置き忘れていた本来の役割に気づかせてもらえた。優花の思いを背負って生きていくことが、最高の償いになるのではないか?そんな思いが芽吹いてくる。

完読してみて感じること。全編を通して、著者である龍 庵真さんの言葉は、芯があるのに温かい。まるで私に、いや、かつての優花に語りかけてくるかのようだ。

「名前とは、存在を受け止めるための最初の肯定である」

最高の償い〜早乙女芽衣子さん物語7

この一文に、私は泣けてきた。そして思った。あの子がもし、これを最初から最後まで読めていたら、何かが変わっていたのではないか?

本当に残念ながらKindleに残された履歴は、前書きの途中で止まっている。きっと、読むには心が限界で、枯れ果てていたのだ。もしくは――「どうせまたきれいごとでしょ」と、どこかで冷めた線を引いていたのかもしれない。

「名前って、なに?」

優花が遺したメモ。「名前って、なに?」という短い問いが、今も私の中で響いている。そして、それに対する答えは、まだ見つかっていない。

ようやく分かってきたことがある。名前とは「識別情報」で終わるものではないということ。名前には、感情が宿り、記憶が重なり、その人だけの背景がある。誰かに与えられたものかもしれないけれど、人生の中で、意味も価値も変わっていく。

あの子が問いかけてくれたからこそ、私は今、名前と向き合っている。そして、自分自身と向き合っている。今までレールの上を生きるよう、無意識に選ばされてきた。娘がレールから外してくれたのだ。レールに戻るかもしれないが、立ち止まれていることに意味を感じている。

この本の著者――龍さんのFacebookアカウントをフォローしサイトを検索している。SNS上では、過激なことは言っていない。むしろ、穏やかに、丁寧に、人の痛みに寄り添おうとしている空気感。

とは言え、まだ何かを「申し込む」勇気まではない。でも、知りたい。この人が、どんな問いを大切にしているのかを。なぜこんな考え方を抱くようになったのだろう?何を目指しているのだろう?

優花の問いが、私の人生を少しずつ動かしている。それが、ほんのわずかでも「再出発」の始まりなら――きっと、あの子も、どこかで少しだけ笑ってくれる気がする。

#無意識
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#自殺

残された「問い」〜早乙女芽衣子さん物語6

記憶の中の私

Kindleの電源を落としたあと、私はしばらくその場に座り込む。深く息をついても、胸の奥の重さは解けない。

娘が読もうとしていた――『自分の名前を愛する力』。Kindleの履歴によれば、前書きを読んだ時点で止まっている。何を思い、なぜそれを選んだのか?答えは届かない。

残された「問い」〜早乙女芽衣子さん物語6(優花ちゃんに尋ねられている記憶)

仰向けでぼんやりと天井を見つめながら、ふと1つの記憶がよみがえってきた。――あの子が、まだ幼稚園に通っていた頃のこと。

「どうして、ゆかって名前なの?」

夕方、台所に立っていた私に、優花が華奢(きゃしゃ)な声で問いかけてきた。何か返したはずだが、何と答えたのか、どうしても思い出せない。記憶の中の私は、まな板と向き合っていた。夕食の献立のことしか頭になかった。問いかけの意味も、その重さも、深く受け止めていなかった。

今、その上の空だった自分の姿が、情けなくてたまらない。もしあの時、ちゃんと答えていれば、もしあの子の目を見て、「あなたの名前はね〜」と伝えていれば――私たちは、もっと違う形でつながっていたのではなかろうか?

問いの痕跡

娘はずっと、自分の名前の意味を知りたがっていたのかもしれない。そして、私がそれを語らなかったことを、どこかで悲しく思っていたのかもしれない。だからこそ、「名前って、なに?」という問いが、ノートに刻まれていたのだ。私の胸の内にも、同じ問いが残されたままになっている。

「名前とは、誰かに与えられたものなのか?」
「自分で選び取るものなのか?」
「それとも、背負うものなのか――?」

どの答えも、まだしっくりこない。だが、分からないまま問い続けることが、今の私にできる唯一の誠実だと思えてくる。あの子の問いの痕跡を、私は心の中でなぞるように抱きしめている。それは、娘の声なき声でもあったのだろう。

残された「問い」

その晩、一字一句、読み終えた。閉じたKindleを胸に抱え、しばらくの間、呼吸さえままならなくなっていた。あの子が、こんな本をダウンロードしていたこと。その事実が、ただの偶然ではなかったと今なら分かる。

私は、この本を通じて初めて「名前」というものに真正面から向き合った。政治の世界で何百、何千という名を見てきたはずなのに、「名前とは何か」なんて考えたことは1度もない。

それが、ここには書かれている。「名前とは、存在を受け止めるための最初の肯定である」「名前を愛する力とは、自分を信じる力でもある」と。

――優花は、これを読もうとしていた。誰にも言えなかった迷い・苦しみ・不安。そのすべてを、この一冊にゆだねたのかもしれない。けれど、おそらく前書きで力尽きていた。すでにあの子の心は限界だったのだろう。

私は今、読んだ。読み切った。その上で初めて、あの子の「名前って、なに?」という問いに、心から向き合いたいと思った。

この問いには、答えはないのかもしれない。でも、私はようやく、問いとともに生きていこうと決めた。あの子が残してくれた「問い」こそが、今の私を動かしている。

この本の著者、龍先生に興味が湧き、サイト等検索してみている。SNSの限りには、アヤシイ人物ではなさそうだ。ひとまずは、Facebookのフォローをしてみよう。私も、自分の名前について、問うてみたくなった。

#幼稚園
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沈んでいる言葉たち〜早乙女芽衣子さん物語5

芽衣子さん、娘の後追い自殺というステージから、少しずつ気づきを得て成長中です。

言葉の力の瓦解

机に向かい、私は今日もノートを開いた。開いたまま、何も書かれていないページと見つめ合う日々。

昨日も、その前も、私はここに座り、ペンを持った。けれど、文字にはならない。言葉にしようとするたび、心の奥が疼いた。どこから手をつけていいのか分からず、ただ無言のまま、時間だけが過ぎていく。

かつて私は、言葉の力を信じていた。演説原稿、声明文、記者会見・・・。どれも周囲を納得させ、支持を集めるための「整った言葉」だった。音を立てて瓦解していくのが分かる。

今は違う。誰にも見せる必要のない、自分のための言葉。自分の命に問いかけ、自分にだけ応える言葉。そんな言葉を、私は一度も使ったことがなかったのだ。

優花のKindle

沈んでいる言葉たち〜早乙女芽衣子さん物語5

遺品の中に、Kindle端末があった。最初は充電も切れ、電源も入らない。ふとした気まぐれで充電ケーブルを挿し、起動させてみると、ロックもされていない。おそらく、パスワードすら設定していなかったのだろう――。それは、単なる操作上の話ではなく、優花が「読んでいた証」を、私に手渡してくれたようにも感じる。

私の指先は、なぜか躊躇なく画面を滑らせている。ダウンロード済みのタイトルが一覧で並んでいる。その中に、見つけてしまったのが・・・。

『自分の名前を愛する力』著者:龍 庵真

優花のKindleに、一冊の本が表示されていた。画面を開いた瞬間、なぜかそのタイトルに目が釘づけになる。

著者は、見知らぬ名前だ。それでもなぜだか、心臓の奥がヒリつくのを感じる。この本を、優花は読もうとしていたのだ。なぜ読もうとしたのか?何を期待してページをめくったのか?娘は、名前に何を見出そうとしていたのだろう?

冒頭に書かれていた「⾃分の名前を愛していますか?」

たった一行なのに、胸が苦しくなった。あの子が「名前って、なに?」と問いかけた意味が、さらに深くのしかかってくる。この言葉は、あの子に届いていたのだろうか?さらに重荷にしてしまっていたのだろうか?

先を読めず、Kindleを閉じた。しばらく動けない。

はじめの一文字

娘は、この名前を胸に、何を感じていたのか?どうして誰にも言わず、黙ってこの本を読んでいたのか?「名前って、なに?」の答えは得られなかったのか?知りたいのに、一歩を踏み出せない。過去の時間を取り戻せないことへの悔恨と、癒しきれない自責の複合感情による残酷さに、打ちのめされる。

今日は、ほんの少しだけ違った。静まり返った部屋の中で、ふと風が通り抜けた。閉め切っていたカーテンの隙間から、夏の陽が差し込む。優花の笑顔をおさめた写真が、光を浴びて微かに揺れていた。

「・・・・・ごめんね」ようやく声が出た。そして、震える手でペンを持ち、ノートの隅に書く。

「優花」

今まで、どれだけこの2文字の価値を感じようともしていなかったのか、よく分かった。気づけた感謝の気持ちと、気づけなかった今までの悔しさ、今さら遅いが「優花」への尊さを味わいきる決意。そんな思いを込めた。

沈んでいる言葉たち

私は、何もかもを正しく理解できるとは思っていない。今言えることは、自分の中に沈んでいる言葉たちを、少しずつでもすくい上げていきたい。

優花がこの本をダウンロードしたのは、どんなきっかけだったのだろう?最後まで読めたのだろうか?途中で閉じたのだろうか?何を思い、どう受け止めたのだろう?

分からない。しかしそれを問いとして持ち続けることはできる。

それが、今の私にできる唯一の弔いだ。ようやく始まった――あの子の「名前って、なに?」と問いかけた意味を追求するという旅の、ほんの第一歩なのかもしれない。

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名前を呼ぶ=生命の肯定〜早乙女芽衣子さん物語4

白紙のままのノート

心の耳を澄まし自分と向き合うためのノートは、白紙のままだ。インタビュー等、雄弁に語ってきた今までは何だったのか?何を書くべきかも分からないし、自分が自分を責めずにいられるのか?そもそも書くことで、「許された気になっていいのか」さえ分からない。いかに自分を偽ってきたかを思い知らされる。

それでも私は、今日もページを開いた。開いて、何も書かず、閉じる。これを繰り返して、もう何日になるだろう?鉛筆を持つ指先が、震えている。決して年齢のせいではない。何かを書くことが、決めることのように思えて恐いのだ。

今日は久しぶりにラジオをつけてみた。つけたはいいが、すぐに消した。言葉が、耳にけたたましく感じる。ニュースも、音楽も、DJのMCも、まるで全部「外界」のようだった。世界と隔絶された強烈な分離感がある。

ただ1つ、気にかかる言葉があった。「あなたは、あなたを何と呼びますか?」という短い詩の一節。詩の内容は覚えていない。その一文だけが胸に残り、こだましている。

呼ばれたい名前

私は、私を何と呼んできた?そして優花を、私は何と呼んできた?「優花」と呼ぶ時、私はどんな思いでその名を口にしていたのだろう?思い返してみると、「ゆか」というその音を、私はいつも「早くしなさい」「何してるの」と叱責とセットだった。優しく呼んだ記憶が、驚くほど少ない。

「優花と2人で生きていくためには、私がやらなければならない」と考えていた。「優花のために」と考えてきたことが、すべて裏目に出ていたのではないか?優花に接してきた対応が、側近スタッフたちにも反映されているとしたら?本当に信頼関係があったのか、疑問が湧いてきた。

気づいてしまった瞬間、目の奥が熱くなる。でも涙は出ない。ただ、じっと考えている。思いを向けている。――彼女は、自分の名を「呼ばれたい名前」として感じていただろうか?

もしかしたら、「名前を呼ばれるたびに傷ついていた」のかもしれない。そう考えると、たまらなくなる。私は、彼女の名前に、何を込めてきたのだろう?その問いが、また私に返ってくる。

名前を呼ぶ=生命の肯定

「・・・芽衣子・・・・・」自分の名を、声に出してみる。空気がわずかに震える。部屋の中で、自分の声がこんなに響くのは、何ヶ月ぶりだろうか。

「呼ぶという行為」は、存在価値を認めることなのだと、ようやく分かりかけてきた。名を呼ぶことは、「その人の居場所」を、この世界に刻むことなのかもしれない。

私は、優花の名を、ただの記号として使っていた。存在を抱きしめるようには、呼んでこなかった。その後悔とともに、ようやく「声に出せなかった名前」という、私自身の罪に気づいた。

そして、ようやくノートに、たった一言だけ。

「名前を呼ぶ=生命の肯定」

名前を呼ぶ=生命の肯定〜早乙女芽衣子さん物語4

それが私の、死んだ娘への最初の贈り物だ。

#音楽
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#ノート
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名を持たぬ遺品〜早乙女芽衣子さん物語2

名を持たぬ遺品〜早乙女芽衣子さん物語2

名を持たぬ遺品

冷蔵庫の音が、やけにうるさく感じる。あれから何日経ったのだろう?もう曜日の感覚もない。梅雨明けの強い日射しを避けるように、カーテンは閉め切ったまま。ながらも1つだけ、課したことがある。

優花の遺品を、きちんと見ること。

ずっと避けてきた。段ボールにつめたまま、開けることもできなかった。優花が住んでいたマンションの管理人が整理してくれた荷物を、玄関に押し込んでいたのだ。

段ボールを開けると、生活の痕跡が出てくる。服・書類・化粧ポーチ・薬・電気代の請求書・・・・。手紙はない。日記もない。スマホもロックがかかっていて、何も見られない。母親として、私は何も知らない。彼女が何を考え、何に傷つき、何を願って生きてきたのか――その証拠が、どこにもない・・・。

県政では、インタビューに意気揚々と答え、県から国を活性化させていく構想を練っていた。「私がいる日本が、このままで終わるわけがない」そう確信していた。確実にブームを起こせる自信があったのだ。あの日までは・・・。

名前って、なに?

涙は出ない。ただただ、深い沈黙。1つだけ見つけたのは、小さなメモ帳。表紙の裏に、書いてあったのは「名前って、なに?私は私のことを、どう呼べばいいのか、分からない。」

ページはそれだけ。あとは白紙。何度も開いて、書こうとして、やめた跡がある。

息がつまる。これは、誰にも見せていないノートだったのかもしれない。私にも友人にも、見せきれなかった小さな叫び。本当は誰かに聴いて欲しかったのだ。誰かに自分の存在を、声を気づいて欲しかったのだ。「もうムリだ」とあきらめ生命を絶ってしまうまで、何があったのだろう?

「名前って、なに?」

無意識のうちに自分の名を口にする。

「・・・早乙女 芽衣子」

名の重み

オーラをまとっていた当時の言葉の響きと比べても、かつての威厳はない。1人の老いた女性のつぶやきが部屋に沈んでいく。自らの名を、こんなにも無意味に感じたのは初めてだ。そしてふと、頭の奥に引っかかるものが湧き上がってきた。

「優花は、本当は何と呼ばれたかったんだろう?」

「呼び方(Do or Have)」というよりも、「存在のあり方【Be】」に対する問いのように響いた。

「あの子は、私にどう見て欲しかったのか?どんなふうに、名づけて欲しかったのか?」

机の上にうつ伏せで置いてあった写真立てを、そっと起こした。優花が笑っている。その笑顔が、ものすごく遠く感じた・・・・・・。

今はもう、誰も彼女の名を呼ばない。この世界で、彼女の名前を声に出すのは、私だけになってしまった。だからこそ――その名の重みを、私が引き受けなければならない気がした。

きっとそれが人生最期と決めた私の、最初の一歩なのだ。


#玄関

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#彼女
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#龍

元県知事の孤独〜早乙女芽衣子さん物語1

元県知事の孤独

◯◯県 盆地を見下ろす高台の自宅。長年暮らしてきたこの家で、初めて「無音の時間」を感じている。

私は、早乙女 芽衣子(さおとめ めいこ)、72歳。つい2ヶ月前まで◯◯県知事だった。「女 角栄」とも称され、政界でも異例の「母であり、知事である」リーダーとして知られた存在。政界一家に生まれ、政党の後ろ盾もあった。知性と胆力には自信があり、一目置かれていた。夫を病で亡くし娘を1人で育てながら、政治という戦場を生き抜いてきた。知事から国会へいつ乗り出していくのか、噂が絶えなかった。

今は肩書きもなく、呼ばれることもない。むしろ呼ばれたくない。新聞や雑誌の取材も遠ざけた。街で声をかけてくるのは、今も熱心な支持者だけだ。けれど、そのどれにも応えきれないでいる。誰にも会いたくない。もう何もしたくない。生きていくことさえ・・・。

当時インタビューを受けていた自宅リビングには、配達されたままの新聞・宅配の段ボール・未開封の郵便物が散乱している。台所はインスタント麺等の食べ残しや腐りかけている食べ物がそのまま置いてある。お風呂に何日入っていないだろう?数える気持ちにもならない。梅雨が明けた日射しの中、雨戸を閉め切り、陰鬱とした日々。

辞任の本当の理由は、語っていない。「体調不良」「政治的混乱」いくつもの憶測が飛び交ったが、すべて違う。――愛する娘 優花(ゆか)の自殺。

元県知事の孤独〜早乙女芽衣子さん物語1

遺影の前で

自ら命を絶ったという連絡を受けた日のことは、青天の霹靂で今も現実味がない。連絡が来たのは、県庁の執務室だった。職員が震える声で伝えてきたあの一報。すぐに向かったが、もう冷たくなっていた。遺書もなく、ただ静かに逝った。享年48歳。

政治への職務に夢中で、娘に関われていなかったことに気づく。結婚後まもなく離婚し、10年以上1人。正月や盆等の節目で会ってはいたが、笑顔で問題なさそうだったので、「幸福だろう」と決め込んでいた。今まで「言えなかった」のだ。

「なぜ自殺なんて・・・」と、表面的にしか関わってこなかった私には、理由が全く分からない。「ごめんね・・・」と謝罪の気持ちと、自分を責め立てる声が脳内に響き渡っている。

遺影の前に座る。娘の笑顔は、写真の中で永遠になった。この笑顔とは、誰に向けたどんな笑顔だったのだろう?私に残されたものは空虚だ。「母親失格」「人間失格」客観的に誰かから言われるわけではない。私自身が、私への罵倒だ。

本当の望み

辞任における記者会見では泣かなかった。訃報にも政治的配慮を求め、冷静に記者の質問に答えた自分を、今はただひたすら恥じている。

葬儀を終えた後、すべてが止まった。1人で住むには広すぎる。リビングの壁面には、知事時代に寄贈された感謝状や表彰状がそのまま並んでいる。だがソファには本や服やアクセサリーが無造作に積まれ、テーブルの上には娘の部屋から持ち出した写真立てがうつ伏せに置かれている。その空間で、朝も昼も夜も関係なく、遺影の前で座っているだけ。

秒針音すら、心に突き刺さる。私はまちがっていた。もう生きていない方がいいのだろう。もう私を心配しないでほしい。関わらないでほしい。

あの子は、どんな名で呼ばれたかったのだろう?どんな人生で、どんな嬉しいことや悲しいことがあったのだろう?なぜ・・・・・自ら人生を閉じてしまったのか?私は「早乙女芽衣子」として、娘 優花へどれほどの愛情を込めてきたのか?

「優花の本当の望みとは何だったのだろう?」

私も後を追って逝くのもいいが、せめてそれだけは知りたい気持ちが芽生えてきた。確かに私はまちがったのだ。しかしながら何をどうまちがったのか、確認せずに死ぬのは優花に申し訳なさすぎる。

おそらくはこれが母親として、早乙女 芽衣子として最後の役割となるだろう。最期は優花のために生きようと決め、何をすることが適切かを、ようやく考え始めた。

あとがき

絶望感に関しては、これまでたっぷり味わってきました。生きる意味を見失い、誰にも助けを求められず、1人沈み込んでいくような日々。それでも、生きていかねばなりません。絶望に浸りながら働かざるを得なかった記憶は、かなりの長期に至ります。

この物語が、どのように進み、どこへ向かうのか――早乙女芽衣子という1人の女性が、自らの命と名にどう向き合っていくのか。ぜひ、これからの展開にご期待ください。


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小さな決断〜藤堂富美子さん物語6

小さな決断〜藤堂富美子さん物語6

翌朝の静けさ

翌朝。洗濯物をたたみながら、昨日の対話を何度も思い返していた。

「名前は、守るものではなく現れるもの」が、夜を越えても胸の奥で響いている。

長年、美雅という芸名に誇りを持ってきた。弟子にも、舞台にも、恥じない生き様を刻んできたつもりだった。それは「私であり続けるための鎧」でもあったのだと、今さらながら気づいたのだ。

言葉にうまくできないが、鎧は錆び付いており、磨くことを怠っていたのだ。かつ、今までの磨き方ではダメで、全く新しい何かが必要な気がしてならない。そもそも鎧をまとい続けている必要があるのだろうか?

本当に「守るものではなく現れるもの」ならば、鎧をまとわずとも名前は現れてくるはずだ。私は娘 雅子にも、弟子たちにも、この鎧を着せようとしてきたのかもしれない。

選ばされてきた人生

思い返せば、舞踊の世界に入ったのも、名を受けたのも、「流れ」だった。自らが明確に「これが私」と決めた記憶がない。名前も立場も、人間関係さえも────与えられたものを受け入れ、守ることに必死だった。

もはや「選ばされてきた人生」では、もう立っていられない。

「富美子さんの人生、きっと変わりますよ」真紀子さんの言葉が、今は現実味を帯びて胸に残っている。変わりたい。変わらなければと思っている。でも──どう変わればいいのだろう?何を望んでいるのか、自分でも分からない。

「姓名承認」なるものも、まだ完全に信じているわけではない。占いでもなく、改名でもなく、自分で自分の名前と向き合う?・・・それで何が変わるのか。

それでも確かに、昨日の対話の中で、初めて「もっと自分の名前を深く知ってみたい」と感じた。昨日のご縁が、心にわずかな灯をともしている。

真紀子さんがしきりに言っていた、「似ていると思うんです、私たち」──私に見えていない何かが、真紀子さんには見えているのかもしれない。

「美雅」としての名を、ここで閉じるのではない。「富美子」である私が、どう解釈するのかを選ぶのは、私自身だ。

小さな「決断」

富美子は、携帯端末を手に取り、慎重に文字を打った。

「真紀子さん

昨日はありがとうございました。
龍先生の言葉、一晩たってもまだ胸に残っています。

私・・・自分の名前を、今までとは違う視点で考えてみたくなりました。
改めて龍先生がおっしゃられる「姓名承認」の機会をいただけませんでしょうか。

藤堂富美子」

メッセージを送信後、1人お茶を淹れた。私はこれまで、誰かの言葉に従うことはあっても、自ら決断したと感じた瞬間は数えるほどしかない。すぐに何かが変わるわけではない。ながらも確かに、自ら選んだ「小さな決断」だった。

「まだ私にも、これからがあるのかもしれない──いや、きっとあるに違いない」

そう思えたことが、今は何よりの希望だった。

#舞台
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#洗濯物
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