触れない朝
警察署から帰宅した翌朝、次女 直美はいつも通りに起きてきた。平坦な声で「おはよう」
トーストを焼きながら返した。「おはよう。大学は?」
「行く」
・・・・・・。昨夜のことには触れない。触れても触れなくても、日常は変わらない。触れたところで、何のメリットがあるというのか?コーヒーを注ぎながら、考え振り返る。
謝罪は済んだ。弁償も済んだ。大学側への連絡も確認した。警察からの注意も受けた。今後同じことが起きないよう話もした。やるべきことは、すべて終わっている。何が足りないというのか。
無言の朝食後に
無言の朝食後、直美が机をバンと叩き席を立ちかけ、ふいに言った。「ねえ」
私は顔を向ける。
「ママってさ、本当に絶対に怒らないよね」
昨夜と同じ言葉。昨日言ったことを覚えていないのか?
「怒る場面じゃなかったから。しかも怒ったって何もいいことないじゃない」と返した。
直美は片側だけ口角を上げ、コーヒーカップの縁を指でなぞりながら、笑った。「そういうことじゃない」
正しいかどうか
その一言が、重々しく空気を変えた。長い沈黙が続く。

指を机でトントン鳴らしたり、体を震わせながら「ママって、いつも正しいよね」
うなずきかけて、止まる。正しいかどうかは分からない。ながらも、間違えないよう心がけてきた。
直美は続けた。「私が何考えてるか、訊こうとしないよね」。
言葉がすぐに出て来ない。聴く必要があるなら、訊く。今まで「訊いて欲しい」と言われたことがなかった。とはいえ何をどう訊けばいいのか、分からない。直美は、何を訊いて欲しいのか?
直美はそれ以上何も言わず、玄関を出た。ドアが閉まる音が、やけに大きかった。
助ける側の記憶
昼休み、札幌の母 麻由美に電話をかけた。昨日から今朝のことを話す。母は聴いてから―――
「あなたは昔から冷静だったものね」
悪い意味ではないと思う。
「歩美が慌てるところ、見たことないわ。」
私は笑った。「慌てても、仕方ないし」
母は少し黙った後、ポツリとこぼした。「お父さんが亡くなった時も、あなたは泣かなかったものね。」
あの時は、そうするしかなかった。「歩美はしっかりしてるね」父の言葉からも、私の強みだと受け止めている。
「助かったわ。あなたがいてくれて。」
母の声は、感謝だった。ながらもその言葉に、なんとなく些細な違和感が混じる。
《助かった》のか。私は、「助ける側」だったのか。
「分からない」
電話を切った後、机の上の原稿に目を落とす。文字は整っている。構成も問題ない。しかし朝の直美が言った言葉が、脳裏をよぎる。うまく切り換えきれない。
「私が何考えてるか、訊こうとしないよね。」
私は、聴こうとしていないのだろうか?それとも、どう訊けばいいのか、分からないのか?訊いたところで、何がどうなるのか?初めて思う。
今――、何を感じているのだろう?答えが出ない。理由も分からない。「分からない」ということがあるのだと、初めて知った。