佳境に入ってきました。次回の主人公も決めています。今回の続編です。フィクションですが、極めてリアリティにこだわっています。現実味を帯びていないスピ系な雰囲気や矛盾した関係性を、極力排除しようと努めています。
説明不要なくらいに人生が成立
先生との対話が始まって、約3か月。もう以前と同じ私ではない。変化は、疑いようもなく起きている。
先日の検査では、腫瘍が2mm縮小していた。むくみが大きく取れ、鏡に映る顔は別人のようだ。眠る前には、理由の分からない充実感があり、朝は、体の奥から静かに立ち上がる爽快さがある。仕事を終えて帰宅し、朝になったら家を出て、店へ向かう。そんな日常の1つ1つが、妙に瑞々しい。
この変化を、私はお金にも名誉にも換えられないし、変えたくない。
もし「好きなだけ与えるから、昔の自分に戻ってほしい」と言われたとしても、確実に断る。昔の私のままで世界一のシェフになっても、今の私はきっと満たされない。嬉しくなんかないのだ。
──なのに。私は、まだ誰にも話していないことがある。というより、話す必要を感じなくなってしまった。説明できないのではない。説明しなくても、人生が成立してしまっている。それが、少し怖い。
理解と体感のズレ
対話では、原因も経路もきちんと説明されている。頭では理解できているはずだ。それでも体の方は、説明を待たずに変わっていく。あまりに展開が速く、知的理解と体感の間に、大きなズレが生まれている。体が、このご縁を待ち侘びていたのがよく分かる。
龍先生の言葉を思い出す。「深層を扱うと、当たり前の基準が変わります。すると、問題だと思っていた理由そのものを、思い出せなくなることがある」
確かに、5歳の頃の不快感を、どうしても思い出せない。なぜ母を避けるようになったのか?なぜ父を通してしか会話をしなかったのか?事実としての記憶は明確にある。あれほど強かったはずの憎しみや怒り────感情面における記憶が、もうどうでもよくなっている。
感情的な衝動を、取り戻したいとはもちろん思わない。知らないうちに、気づいたら整ってしまっている。さもワープしてしまったかのようだ。異常に気味悪いほど整ってしまった感覚を抱えたまま、今日も厨房に立つ。
視界に飛び込んできたもの
夜、帰宅して、届いたばかりの愛読の季刊誌を手に取った。料理の参考になれば、それでいい。そう思って、何気なくページをめくる。今回の特集の見出しに、指が止まった。目を逸さずにはいれなかった。
――江戸時代から続く、暮らしの重ね煮。

ほんの数秒だったのかもしれないが、体感ではかなりの間で呼吸が止まった。
外舘 美智子――――――――母の名前。
安っぽい。地味だ。時代遅れだ。そう決めつけて、切り捨ててきた料理。切り捨てたつもりで、実は見ないようにしていただけの生き方。毎回1ページのコラムだったが、なんと大好評につき今回はトップ4ページ。
私は記事をじっと見つめたまま、思わず口に出てきた。「・・・・・・これ、本当にお母さん?」
疑いの言葉なのに、否定しきれない確かさが、そこにあった。説明しなくても、残ってしまっている。言葉がなくても、成立してしまう生き方。ページを閉じても、その重さは消えない。私はどう対応すればいいか、まだ答えを持っていない。ながらも、このまま知らんぷりは、もうできない。
目の前の事実が、はっきりと体に刻み込まれていた。