
今回の『人間の起動前夜』における出発点は、プチ講座でのMさんのコメントでした。
「AIには感動させきれない」
Mさんが言いたかったのは、おそらくこういうことです。
「①『演出や構成で心を揺らすこと』や、②『意味を刺すこと』はできても、最後に③『人の行動や選択の芯を立ち上げるところ(=私が決める)』までは届かない。」
私は、その断定の表現が気に入りません。というか、嫌いです。問題をAIの性能にすり替えているように見えます。感動が③に育つ条件自体が、薄められている環境にないか——確かめてみたくなったのです。曖昧にしたくない情熱が、メラメラ湧いてきました。
盲点から観た感動の到達点
まず前提は、《感動や感謝は、根っこでは「盲点」に触れた時に起きる》です。盲点は決して欠陥ではありません。脳の省エネ構造そのもの。私たちは見ているようで見ていません。当たり前なことほど盲点になります。
もし脳が盲点を完全に払拭していたら、瞬間餓死するほどのエネルギー消費量です。だからこそ脳は省エネにこだわり、重要度が低い情報をどんどん省略します。
そんな状況で盲点を突かれ認識できた時、驚き・快感・満足が生まれ、心が動きます。だからこそ、感動を単なる「泣けた」「震えた」で終わらせたくありません。盲点を突かれはがれ落ち、予測が破れ世界への視点が変わること。それを〈感動の発火点〉だと考えています。
ここで整理しておきます。感動には3つの到達点があります。
① 揺れる:刺激で心が動く
② 刺さる:意味が入り、解釈が更新される
③ 決める:ただ感じて終わらず、「私が決める」で締めくくる
本題は③までたどり着く前に、「私が決める」が曖昧にされる流れが定着していることです。
盲点がはがれ落ちる
私は映画『素晴らしきかな、人生』を20歳で初めて見て、以降ずっと繰り返し見てきました。少なくとも4人に紹介し、一緒に涙を流しました。結末を知っていても、やはり感動します。
主人公は、尽くしてきたことを当たり前だと考え、報われない苛立ちもあります。窮地に追い込まれ、自殺まで考えます。ところが、ある出会いを機に世界の見え方がまるっきり変わり、「私は幸福なんだ」と気づきます。ここで起きているのは、盲点がはがれ落ち「視点が反転する」感動。
今年のテーマを「基盤」としています。たとえ評価されずとも、時が熟すのを待つことにいたしました。時代が追いつくまで、結果を焦らず土台を整えると再確認したのです。
きっかけの「AIには感動させきれない」は本当?AIが感動させきれないのではありません。盲点に触れても、気づきとして定着する前に、
・社会が回収してしまいやすい
・反応が速すぎる
・注意が分断される
・内省が育つ前に次へ流れる
のです。だから感動は薄っぺらい①②で終わりやすく、③に育ちにくくなります。問題は、
・「自分で決めたつもり」が減る
・「決められた中でやる」が増える
という、人生の操縦権を放棄し、指示待ちや受け身思考の温床となります。会社員時代は、朝目が覚めた時の憂鬱感が強烈でした。1日の始まりを喜べません。行きたくもない会社へ行き、喜んで働いているように偽っておりました。もう絶対に当時の過ちを繰り返したくありません。
自主軸=目的地設定
今まで「主語」という表現を使ってきましたが、伝わっていない懸念が消えませんでした。ながらも適切な言葉が思いつきません。ようやく降りてきたのが「自主軸(自らテーマを起こす&目的を定める)」。
だからこそ「感動が当事者に届く=私が決める」に変わります。自主軸は、判断基準の原点となり、車で言えば目的地設定とハンドル。盲点に気づく(感動)が、目的地設定(自主軸)に接続した時、感動は③に届きやすくなります。
起動前夜とは、盲点がはがれ視点が変わり、決断が生まれる手前の時間。今、その臨界点を照合しています。『素晴らしきかな、人生』を何度見ても感動し涙するように、感動を構造化させ、手順を踏まえ簡素化できないかを思案中です。
※あえて「盲点」という語を使った理由は、盲点こそが感動の出発点だと見なしているからです。詳細は過去文にまとめました。