書きながら確信が深まりました。私の役割は、「私が決めたことだから」と言える方を増やすことです。

主語の2極化時代
「主語の2極化」とは、主語が薄まる方向と、主語が暴れる方向が同時に進むこと。
「1」では、感動も感謝も盲点が起点だと書きました。盲点を突かれはがれ落ち、世界の見え方が変わる瞬間。そこからいかに「私が決める」へ届くのか?の照合を続けています。
今回は「2」。なぜ今、「私が決める」まで届きにくいのか?私はAIの限界より、社会の形式を疑っています。あまりに矢継ぎ早すぎるのです。
主語が薄まる——「決めたつもり」が増える仕組み
30代くらいまで、「主語がない」とよく言われてきました。文法上の話ではありません。当時は意味不明でしたが、しみじみ噛みしめています。分かりやすく物が壊れた時に、「壊れた」で終わるのか、「私が壊した」まで言えるのか?後者だけが修正を始められます。
今問題だと思うのは、個々人の癖ではありません。社会の様相として「主語が薄まりやすい」こと。
・反応が速すぎる
・次の刺激が早い
・注意が分断される。
盲点を突かれても、気づきとして定着する前に上書きされています。すると「決める」前に次の流れが起きます。結果、操縦されているのに、自らが操縦しているつもりに。ここが決定的。
あなたは、「デフォルト・モード・ネットワーク(「何もしていない時に働く脳の回路」)」という言葉をご存知でしょうか?今はスマホの普及により、信号待ちでもスマホを確認している方の何と多いことでしょう。ボーッとできないのです。
自衛官時代、ものすごく優秀な同期がいました。彼に「これからどうなっていきたいですか?」と問うた時、ヘラヘラ笑いで「分からない」。その時なぜか、背筋が凍りついたのを覚えています。目的意識が空白の優秀さは、外部の都合で簡単に加速させられる——今ならそう言えます。
本当に厄介なのが、《自主×自律×自立》。3軸のかけ算です。自発性(自主)がすべるほど、自律と自立の強さが「マイナス方向」に効き始めます。
主語をすべらせる——「預言」という上からの形式
先日奥さんから「高田馬場の、あれ行こうよ」と誘われた折に、「預言」のキーワードが出てこなかったことがショックでした。ただの脳内検索ミスで名前が出てこなかっただけだと思います。行くこと自体に大きな抵抗はありません。
預言は、私個人としては本当に感謝しています。整体師を志すきっかけとなったのが、拡大解釈的な啓示であり、預言だったから。「どうせムリだ」とあきらめていた背中を、強くあと押しいただけました。整体師の経験なしには、今はあり得ません。
それでも引っかかっています。仮説ですが、「預言」という形式は、予測や助言とは違います。出どころが「上」に設定される言葉。当たり外れ以前に、主語がすべりやすい構造があります。主語が滑ると、誰かが統べやすくなるのです。
問題のポイントは、予想外な言葉を受けた時。言葉が強いほど、「私が決める」が薄くなりがち。真摯に受け止めようとするほど、形式うんぬんより「私が決めたから」と言えるかかが重要です。
主語が暴れる——責任の明確化が、冤罪になる瞬間
主語の問題は、「薄い」だけでは終わりません。逆に、主語が過剰に暴れることもあるのです。私はこれを散々見てきました。自他ともに。
物が壊れた時、本当は「何が原因か」を確認すべきなのに、「誰が壊したか」を先に決めます。その瞬間、主語は修正のためではなく、犯人づくりのために使われるのです。
冤罪型の怖さは、正しさの顔をして起きること。責任を明確にするという名目で、思い込みで責任を押しつけます。結果、構造は改善されないまま、人だけが消耗するのです。
主語が薄いと修正しようがありません。主語が暴れると修正が歪みます。どちらでも、「私が決める」は育ちません。
だからこその基盤——主語が戻れる足場
題名の『暴力に勝る脅威』は、あなたに主語を正しく適切に扱わせないこと。うやむやに煙に巻くことで、真綿を〆るように【いつの間にやら】飼い慣らされていくのです。
だから私は、今年のテーマを「基盤」に置きました。評価を待つのではなく、修正できる自分を先に作ります。主語が薄まる流れにも、主語が暴れる冤罪にも、翻弄されない足場を。
基盤とは、派手な成果はありません。ものすごく地味。特に若い頃、「私に期待している方なんているわけがない」等が口グセでした。おかげさまで波瀾万丈の人生となり、幾多の振り回され翻弄されてばかりの半生となりました。
・反応で生きない。
・上書きに飲まれない。
・盲点の発火を、気づきとして定着させる。
・「私が決める」を残す。
起動前夜とは、風の時代だからこその足場を整える準備期間だと解釈しています。軽く流れていくからこそ、評価や世論に一喜一憂したくありません。錨の役割を全うしたいのです。私は今、そんな時間を生きています。