白紙のままのノート
心の耳を澄まし自分と向き合うためのノートは、白紙のままだ。インタビュー等、雄弁に語ってきた今までは何だったのか?何を書くべきかも分からないし、自分が自分を責めずにいられるのか?そもそも書くことで、「許された気になっていいのか」さえ分からない。いかに自分を偽ってきたかを思い知らされる。
それでも私は、今日もページを開いた。開いて、何も書かず、閉じる。これを繰り返して、もう何日になるだろう?鉛筆を持つ指先が、震えている。決して年齢のせいではない。何かを書くことが、決めることのように思えて恐いのだ。
今日は久しぶりにラジオをつけてみた。つけたはいいが、すぐに消した。言葉が、耳にけたたましく感じる。ニュースも、音楽も、DJのMCも、まるで全部「外界」のようだった。世界と隔絶された強烈な分離感がある。
ただ1つ、気にかかる言葉があった。「あなたは、あなたを何と呼びますか?」という短い詩の一節。詩の内容は覚えていない。その一文だけが胸に残り、こだましている。
呼ばれたい名前
私は、私を何と呼んできた?そして優花を、私は何と呼んできた?「優花」と呼ぶ時、私はどんな思いでその名を口にしていたのだろう?思い返してみると、「ゆか」というその音を、私はいつも「早くしなさい」「何してるの」と叱責とセットだった。優しく呼んだ記憶が、驚くほど少ない。
「優花と2人で生きていくためには、私がやらなければならない」と考えていた。「優花のために」と考えてきたことが、すべて裏目に出ていたのではないか?優花に接してきた対応が、側近スタッフたちにも反映されているとしたら?本当に信頼関係があったのか、疑問が湧いてきた。
気づいてしまった瞬間、目の奥が熱くなる。でも涙は出ない。ただ、じっと考えている。思いを向けている。――彼女は、自分の名を「呼ばれたい名前」として感じていただろうか?
もしかしたら、「名前を呼ばれるたびに傷ついていた」のかもしれない。そう考えると、たまらなくなる。私は、彼女の名前に、何を込めてきたのだろう?その問いが、また私に返ってくる。
名前を呼ぶ=生命の肯定
「・・・芽衣子・・・・・」自分の名を、声に出してみる。空気がわずかに震える。部屋の中で、自分の声がこんなに響くのは、何ヶ月ぶりだろうか。
「呼ぶという行為」は、存在価値を認めることなのだと、ようやく分かりかけてきた。名を呼ぶことは、「その人の居場所」を、この世界に刻むことなのかもしれない。
私は、優花の名を、ただの記号として使っていた。存在を抱きしめるようには、呼んでこなかった。その後悔とともに、ようやく「声に出せなかった名前」という、私自身の罪に気づいた。
そして、ようやくノートに、たった一言だけ。
「名前を呼ぶ=生命の肯定」

それが私の、死んだ娘への最初の贈り物だ。