
パンダは 象徴 or 本質?
最近「動物園からパンダがいなくなる」という話題が、大きなニュースとして扱われています。1/27に中国へ返還だそうですね。多くの皆さんが惜しみ、悲しみ、「日本からパンダが消える」と嘆き騒ぎます。
私は正直なところ、強い感情が動きません。パンダが嫌いなわけではありません。単に本質的な問いを感じないのです。ほぼ同種の熊は、忌み嫌われ撃ち殺される場面も。野生で殺人事件にまで発展するくらいなので、危険なのは分かります。対面した恐怖を味わったことがないから、差異が分からないのでしょうか?
パンダは、かわいいですね。看板商品として、分かりやすいです。中国外務省から「ぜひ中国へパンダを見にきて」と言えるくらいに、集客力も経済的価値もあります。
しかしそれは「あると安心する象徴」です。「なくなったら本当に困るもの」ではありません。気になっている問題はパンダではなく、「なぜ失っても生き方が変わらないものにこれほど感情を注ぐのか?」という点です。
本当に失われつつあるもの
パンダがいなくなることよりも、もっと抜き取られているものがあります。それは、
- 自ら考える力
- 自ら選び決める感覚
- 自らの時間や生命を、どこに使っているかという実感
です。
気づかないうちに、
- 誰かが用意した価値
- 誰かが決めた「大事なもの」
- 誰かが騒いでいる話題
に、感情を委ねてしまっていませんか?
命の使い方
ここで言う「命」とは、医学的な生死ではありません。「あなたの人生という持ち時間と、そこに注ぐ意志とエネルギー」 のことです。
私が人生かけて関わってきたテーマは、パンダでも、流行でも、恐怖でもありません。「自らの命を、誰のために、何に使うのか?」こちらが曖昧なままでは、何が来ても、何が去っても、結局はまた別の象徴に心を奪われるのです。
誤解を避けたいのが、パンダを否定したいわけではありません。「象徴に反応する人生から、本質と向き合い源に立ち返る人生へ」の切り替えが、今ほど必要な時代はないと感じています。20歳当時から考え続け、話が噛み合わなかった日々。「説教は終わりですか?」と言われたこともありました。
考えることをやめようとしても、なぜか考えてしまっておりました。今振り返って当時の私に言いたいことは、「人生という価値を納得させたかったんだよね」「『これこそが私の生き方だ』と胸張って言いたかったんだよね」。時代の荒波に翻弄され続け、もがき苦しんできたからこその、パンダに見る私の言い分です。
生まれてしまった
こうした問いを抱え続けてきた背景には、ある葛藤がありました。悩みに悩んできた理由は、生まれてしまったから。「こんなつまらない人生、とっとと終わった方がいいだろう」と考えている私がいました。「生まれてしまい、生きながらえてしまっている以上は、何か意味があるんだろう」との熾烈なせめぎ合い。
今、愛する奥さんと一緒に希望を感じています。基盤を整えきれた先にある未来をイメージできたので、時間を要するでしょうが、必ずたどり着けます。今「考え悩み迷い続けてきて、本当によかった」心から感じています。
もしあなたが、
- なぜか最近、騒ぎに乗りきれない
- 「価値がある」とみなされているものより、なんとなく違和感が残る
- 「これでいいのか?」という問いが消えない
そんな感覚を持っているなら、それは冷めているのではなく、目覚め始めているのかもしれません。その感覚があなたの中に「新たに生まれてしまった」のです。私は、その感覚を大切にする側でありたいです。







