反感をもたらさんか?——公開を迷いました。

SNS等には「感謝」「共感」が溢れ返っています。
「感謝しています」「めちゃ共感しました!」
一見温かく美しいやり取り。その甘い言葉に身を置く時、「付和雷同なのでは?」と違和感が首をもたげます。本当に腹から出た感情? それとも嫌われないための安全策?
多くが言う感謝や共感は、時に思考を停止させ、妥協を促す麻酔として機能いたします。
共感という思考放棄
安易な共感は実に簡単です。自ら考え葛藤し「私はこう思う」を差し出す必要がないからです。逆に共感してほしい側も、主張のポイントが定まっていない場合が多いように感じますが、あなたにはどう映っていますか?
例えばランチで「何が食べたい?」と訊かれ「何でもいい」と返し、後で「本当は◯◯が食べたかった」とわだかまり。相手に合わせるフリをして群れに紛れ込む先にあるのは、傷つくのを恐れた「自発思考の放棄」です。
前にある講座で「大阪から来たが『餃子の王将』に行ったことがないので、いかがでしょう?」と言う方がおり、10名全員で食べました。私も「何でもいい」と返す場面は多々あります。そういう時は相手の価値観を全て受け入れようと決めています。理解したい欲求が勝つ場合、私の願望は本当にどうでもよくなるのです。
感謝という保身
「感謝していれば角が立たない」「感謝する私は素晴らしい」——そんな算段は自己保身や社交辞令です。相手に気に入られ評価を高める道具としての感謝には、魂の響鳴に至りにくいと感じるのは私だけでしょうか?
20代当時、「感謝が足りない」と言われ続けました。努めるほど感謝が難しくなり、言葉自体が大嫌いに。だからこそ定義を考え抜きました。分かったのは、感謝とは「する」ではなく「湧き出てくる」ものだということ。いかにボーッと生き、左脳的理解に偏っていたかを痛感しています。
麻酔を解き静寂の自己対話へ
「評価されたい」に支配され陥りがちな落とし穴。耳ざわりのいい言葉で得られる一時的な安心(麻酔)。砂糖の味を占め、増し加えないと満たされないかのように。
これからは「共感」でつながるよりも、違和感を自己対話で深め昇華させるプロセスが尊ばれると感じますが、いかがでしょうか?
評価を得る感謝より、1人でごまかしがない静寂に立つ覚悟。麻酔を解き常識を疑った時、対等に向き合う本物の関係が始まります。