空白の地平〜堺歩美さん物語21

言葉にならない領分

朝、目が覚めたベッドの上。窓から差し込む光が、以前よりも鮮明に、粒立って見える。椅子に座り、ただ呼吸を繰り返す。肺の奥まで空気が沁み入り、背中が内側から広がる感覚。丹田に気力がみなぎっているのが分かる。

「ビジョンが曖昧だ」 昨夜感じたその戸惑いは、今朝、満たされた納得感。これまでの私は、未来を「作る」ことに必死だった。足りないものを埋めるために、必死に計画を立て、正解を、目標を、私の外側に求めていた。

今は、その「足りない」という感覚が消えている。満たされているから、追いかける必要がない。今の私の中にあるのは、広大な「空白」だ。それは、何も無いことの不安ではなく、何でも描き込める、あるいは何も描かなくても成立する、圧倒的な自由の感触。

滲み出す輪郭

飯田橋のオフィス。デスクと向き合っていても、すぐにPCを開く気にならない。かつてなら、1分1秒を惜しんでメールを処理し、周囲に「仕事をしている私」を見せつけていただろう。ふと、これからの仕事のあり方について考えている。

「自立具現化コーリング」 インタビューで美奈さんから聞いたキーワード。同じようにたどってみたからこそ、今の体感と重なり始めている。これから向き合うのは、誰かが作った正解をなぞることではない。

私という存在から、何が滲み出ようとしているのか?それを、整えずに、そのまま世界へ映し出すこと。龍先生のサポートを経て、1人では決してたどり着けなかった「心身の解放」という土台の上に、新たな私の輪郭が着実に結ばれようとしている。

「編集長、少しお時間いいですか?」 昨日のスタッフが、また声をかけてきた。 彼の顔にはまだ迷いがありつつも、以前のような私への依存はない。

私は、椅子から立ち上がろうとして、止めた。座ったまま、ただ、彼を視野に入れる。

「ええ、いいわよ。話して。長くなるなら場を変えようか?」 私自身も聞いたことがないほど深く穏やかな声に驚く。美奈さんが言っていたように、変化した私のエネルギーが、周囲へも浸透する相乗効果。実際に起きているのかもしれない。

始まりの予感

帰り道。飯田橋の駅へと続く坂道を下る。夕暮れの外堀通り。行き交う人々の足音、家路を急ぐ車の列、お堀の底から響いてくる中央線の重低音。そのすべてが、私を通り抜けていく。

空白の地平〜堺歩美さん物語21

帰りの電車に揺られながら、ふと気づく。私はもう、「誰か」になろうとはしていない。今の私にできることを、不格好なままでも差し出す。それだけでいいのだという、強く静寂な確信。

マンションに着き、玄関のドアを開ける。部屋の明かりをつける前に、暗闇の中に立ってみる。不安はない。ここにあるのは、1人ではたどり着けなかった、新たな私と世界との「間」。 明日、何が起きるかは分からない。分からないまま、この自由な空白へ飛び込んでいく。「・・・さあ、いこう」 湧き出てくる自分自身を突き動かすような声。それは、ようやく始まった、本当の意味での私の人生の産声。

心身の解放〜堺歩美さん物語20

何もしない

朝の吉祥寺駅。中央線がホームへ。人の流れに紛れながら、ふと気づく。急いでいないのに、足が止まらない。整えようとしなくても、そのまま動いている。呼吸が楽で、深く吸えている。足どりがものすごく軽い。

車内。いつもなら、頭の中で今日の段取りをなぞっていたのに、何もしていない。窓に映る自分をぼんやり見ている。つい1ヶ月ほど前までは、通勤中の化粧だった。「何をするか」「誰と会うか」を考え、ファンデーションの厚みやルージュの色を調整していた。何もしないことが、妙に心地よい。

飯田橋で降り、会社へ。歩幅を合わせようとも、速めようともしていないのに、流れから外れていない。どこにも力を入れていないのに、崩れていない。

「それでいこう」

「おはよう」オフィスに入る。

「編集長、例の件ですが・・・」スタッフが資料を差し出す。受け取り目を通す。すぐに言葉が出てこない。けれど、そのまま黙っている。

「それで、どう進めるつもり?」とっさに出た言葉に、間が空く。予想外だったのか、驚いた表情でこちらを見る。そんなに驚かれるような私だったのか?彼自身の言葉で語り始める。途中で口を挟む気にならない。最後まで聴いて、うなずく。

「それでいこう」以上。心なしか嬉しそうなスタッフ。私も嬉しくなる。

沈黙という「間」

午後、作家との打ち合わせ。言葉を探している沈黙。以前なら、何か言って埋めていた。
今日は、沈黙という「間」が心地よい。軽くコーヒーを一口。コーヒーポットからお互いのカップに注ぎ足し、そのまま待つ。

心身の解放〜堺歩美さん物語20

「堺さん。・・・今の感じ、なんかいいですね」作家がぽつりと言う。理由は訊かず、軽く微笑みうなずく。安らぎを分かち合えている充実感。そうだ、私が求めていたのはこういう感覚だ。

安らぎに満ちている

帰り道。中央線の満員電車の中吊り革につかまり、達成感とともに1日を振り返る。前に美奈さんが言っていた「求めてきたマリアージュ」の意味を噛みしめている。当時は何を言っているのか、雲をつかむような感覚だった。変わろうと努力した感覚は皆無だ。気づいたらいつの間にか、切り替わっている。

吉祥寺で降り、改札を抜け、家路へ。夜の商店街を抜け、雑踏の空気が穏やかに入ってくる。エレベーターを上がり、ドアを開ける。部屋の中の安らぎに、思わずアツい何かが込み上げてくる。またこうして家に帰って来れたことがありがたい。

リビングの灯りをつけ、イスに座わる。明確なビフォーアフターの違いに、驚きとともにビジョンの曖昧さに戸惑いが湧いてくる。