
言葉にしてしまう恐怖
──コメント欄に返信が届いてから、何度もその文章を読み返している。
「『自分が崩れていく音』とはどういうことなんでしょう?よろしければ、ぜひお聴かせいただけませんか?」
何でもないような言葉。でも、どこまでも優しく鋭かった。読み返すたびに胸が詰まる。すぐに返事を書こうと思ったのに、できないでいる。言葉にならないのではない。言葉にしてしまうことが恐怖なのだ。
画面を閉じて、しばらく考えた。そして、ふと思い立ち、鏡の前に立った。
帯で整える芯
「そうだ、帯を結ぼう」
人と会う予定もない。誰に見せるわけでもない。でも今、私は自分自身のありようを整えたい。箪笥の奥にしまっていた淡い藍色の名古屋帯。軽やかながら芯のある一本。お気に入りの1つだ。
自分の手でゆっくり結んでいく。ひと結び、ひと呼吸。帯のひと巻きごとに、心が落ち着いていくのが分かる。
「私はまだ、言葉にならないものを抱えたままでいる」
「でも・・・それでも、伝えてみたいのかもしれない」
「このままでは絶対にダメだ。どうしても変わりたい。一歩を踏み出したい」
自分を語ってもいい
帯を締め終え、スマートフォンの画面を開く。メッセージ欄に、少しずつ言葉を綴り始めた。
ーーー
佐藤真紀子さん
コメントを読んでくださり、ありがとうございます。
あの一言に、どれだけ救われたか、うまく言えません。
「崩れていく音」というのは──
私の中にずっとあった型が、今、音を立てて壊れていっている感覚です。
それは恐怖でもありますが、どこかで「ようやく」という安堵も混じっています。
この歳になって、初めて「自分を語ってもいい」と思えた気がしています。
よろしければ、少しだけお話しさせていただけましたら嬉しいです。
ーーー
送信ボタンを押したあと、自分の姿を鏡で見た。久しぶりに、自分の顔が「私の顔」に見えた気がした。
毅然とした雰囲気と魅力
メッセージのやりとりから数日後、
「もしご都合よければ、一度だけZOOMでお話ししませんか?」
真紀子さんからの提案が届いた。
迷ったが、その迷いこそが「行くべき方向」だと、今回は思えた。
約束の午後。髪を軽く結い、帯を締め直し、画面の前に座る。
パソコンに映し出された真紀子さんの顔は、写真よりもずっと柔らかく、芯を持っていた。何があっても動じない、毅然とした雰囲気に、魅力に吸い込まれていく。
「初めまして。お会いできて嬉しいです」
「・・・こちらこそ。少し緊張していますけど、ありがとうございます」
2人とも微笑み、しばらく言葉がない。ながらも沈黙が気まずくないのは、久しぶりだ。
「崩れていく音・・・という表現が、とても印象的でした」真紀子さんから。
私は、小さく頷いた。ほんの少しずつ、語り始めた。
矛盾
「私は、舞にすべてを捧げてきた人間です。弟子たちには厳しくしてきましたし、娘にも・・・ずいぶんと、ですね。でも、自分は間違っていないという想いがどこかにあったんです」
「それが娘からの一言で、音を立てて崩れていって・・・もう、何を信じてきたのかも分からなくなってしまって。もう何をやってもうまくいかない気持ちが湧いてくるんです」
真紀子さんは、ただ、静かに頷いていた。傾聴という言葉の価値を、初めて体感できた。聴いていただけているという態度だけで、涙が込み上げそうになる。
「型に閉じ込めていたのは・・・・・、私自身だったのかもしれません。今までの私の生き方は、失敗でした。過ちに気づかず突っ走ってきたことを後悔しています」
「でも・・・、型にはめてきたからこそ私は私ではいられたんだと思います。・・・そんな矛盾を、今も抱えています」
「・・・矛盾を抱えたままでも、言葉にしてくださって、ありがとうございます」
真紀子さんがそう言った時、やっと「私は自分の話をしてもよかった」のだと気づいた。画面越しに深く頭を下げた。それを見た真紀子さんも、穏やかに微笑んだ。
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