
言葉が体に浸透
朝。目覚まし時計の音が鳴る前に目が覚めた。というより、現実へ戻ってきた感覚だ。
静寂だ。昨日溢れて止まらなかった「ありがとう」と「ごめんね」。消えたわけじゃないが、言葉が体に浸透し1つにまとまった何かがある。
うまく言えない。しかしだからこそ、前と同じ自分には戻れない、戻りたくないのが分かる。起き上がるが、体が重い。昨日の濃密な集中力もあって、ドッと疲れている。
カーテンを開ける。光が射し込む。前と同じ朝なのに、同じ感じがしない。とはいえ「違う」と言い切れるほどの変化でもない。その曖昧さに戸惑う。
キッチンに立つ。コーヒーを淹れる。お湯を注ぐ。動きが、やけに遅く感じる。遅くしているわけじゃない。急ぐ必要がない気がしている。——いや、実際は分からない。急いだ方がいいのかもしれない。分かるが、体がもうそれを選ばない。
不安になる。こんなことでいいのか?こんなふうに動いて、間に合うのか?答えが出ないまま、コーヒーを飲む。
スマートフォンを手に取る。声をかければ済む距離にいるのに、直美からのメッセージ。息が止まる。前と同じ反応。胸の奥が、固くなる。・・・そのまま開く。短い文。意味を考えようとした瞬間、ハッとする。また「正しく読もう」としている。完全にやめきれたわけじゃない。それでも、進める。
返信を打つ。言葉が詰まる。それでも消さない。整えようとして、途中で手が止まる。そのまま、整えず送る。
送ってしまってから、「——あ」。もっといい表現があったかもしれない。もっとちゃんとできたかもしれない。でも、もう戻せない。「・・・それでもいい」と思っている私がいる。妙に割り切れていることが、なんだか怖い。
外に出る。人が多い。いつもの道。少しぶつかりそうになる。前なら、無意識に身構えていた。今も、完全には消えていない。我ながら驚く。足が軽い。
会社に着く。メールが並んでいる。最近着手できなかった箇所もあり、視界が鮮明に映っている。大きく深呼吸し今日の流れをイメージすると、思考が巡る。どう処理するか?どう優先順位をつけるか?どう整えるか?——全部、前と同じことをやろうとしている。
「・・・いいか」小さく呟く。何が「いい」のかは分からないまま、1通目を開き、書く。途中で引っかかるが、止めない。少し雑なまま、送る。数秒後、返信。
「了解です」それだけ。それだけなのに、なんとなく胸の奥が緩む。
響き合う世界
昼。直美から、またメッセージ。今度はすぐに開けた。怖くないわけじゃない。でも、さっきよりはスムーズ。短いやりとり。途中で、言葉に詰まる。送るか迷うが、そのまま送る「直美のこと、聴かせて」。
既読。少し時間が空く。その時間が、やけに長く感じる。心がざわつき揺れる。
返信。「なら話せる」それだけ。その一文で、何かがほどける。安心とは少し違うが、確かに前とは違う場所にいる。
夕方。仕事はまもなく終わるが、前ほど重くない。見守られているかのような温もり。ちゃんと疲れている。その疲れを隠そうとしない私がいる。それもまだ慣れない。
家に着きドアを開けたら、直美と目が合う。言うべきか、待つべきか、迷う。分からない。ながらも「・・・昼のメールのことだけど」口が動く。
途中で何度も詰まる。うまく言えない。それでも、やめない。整わないまま、言葉が出ていく。自分でも聞いていられないくらい、不格好な声。でも、止められない。
直美は、黙って聞いている。長い沈黙。逃げたくなる。それでも、その場にいる。何を語っているのか、自分ながらによく分からない。いったい何が起きているのか?
「・・・それでいい」小さく、返ってくる。その一言で、力が抜ける。直美の表情が和らぎ、直美が生まれて初めてなくらいに、語り合った。今、初めて直美と響き合えている。
何が起きたのかは、分からない。何も解決していないかもしれない。それでも、確かに私の中で何かが変わっている。
部屋に戻る。静かだが、昨日とは違う静けさ。もう前と同じやり方には戻れない。それだけは、はっきりしている。理由は、まだ分からない。分からないまま、今日が終わる。