終わった後に残るもの

昨今よく見るイベントの光景。終わった後の状況に、言葉を失います。あれだけ賑わっていたはずの場所に残るのは・・・。例えば夏の祭りの翌朝に、ジョギング中に見たゴミの山。かたづけてあっただけ、まだいい方です。
ゴミとは、人間の勝手な都合による解釈です。ゴミにしてみれば、どう扱って欲しいのでしょうか?靖国神社では、祭りで屋台出店を禁じました。遊就館ではゴミを「護美」と書き、本質的に慮っての判断だと受け止めています。
楽しむことは素晴らしいです。祝うことも、美しい行為のはず。それでも、終わった後に何が残るのかを見ると、本当にそれを「大切にしていたのか?」と、問わずにはいられません。あなたにはどう映るでしょうか?
小さな違和感は、あり方の一部
こういった違和感は、日常の些細な出来事に限った話ではありません。「挨拶もちゃんとできないやつに立派に務まるわけがない」昔から言われてきましたが、ハインリッヒの法則にも通じています。ごく些細な出来事は、よくも悪くも後の大きな結果へとつながっていくのです。
人間関係においても同じです。よかれと思っての一言が、相手には押し付けに感じられることってありませんか?何気ない振る舞いが、関係性そのものを左右してしまうこともあります。わずかなズレは、その場で終わるものではなく、やがて関係全体のあり方として表れてくるのです。
この構造は、個人の関係にとどまるものではありません。現代社会でも歴史の中でも、相似形で繰り返されてきました。
例えば、かつて掲げられた大東亜共栄圏という理想。アジアが共に生き、共に栄えるという思想は、言葉だけ見れば素晴らしいこと。しかし現実に起きたのは、「共栄」とは受け取られない出来事の連続でした。
理想は掲げられていました。その結末とはどうだったのでしょうか?後のベトナム戦争でも同じことが起きています。植民地支配を受けていた現地民から別の形の支配として受け取られます。同じ行為でも、評価が分かれるのはなぜなのでしょうか?
大きく2つに整理できます。1つは、受け取る側の状況。もう1つは、関係性の構造です。どれだけ善意や理想を掲げていても、相手がそれを「自ら選べない状態」に置かれていたとしたら、それは支えではなく、介入として受け取られます。
善意が支配に変わる境界線
今回のブログの目的にようやく入れます。見落とされがちな境界線。前に奥さんへ、似合いそうだと内緒でプレゼントを試みたことがあります。奥さんも「確かに、よく似合ってるよね」と言った次の一言「私が選びたかった」。この一言に、すべてが表れています。
・与えているつもり
・よかれと思っている
・正しいことをしている
相手の「選ぶ余地」が奪われた瞬間に、関係は対等ではなくなります。対等でなくなった関係は、どれだけ言葉を整えても、共生とは呼べません。だからこそ時に、支配の言い換えとして受け取られてしまうのです。
現代にも続く同じ因果
これは過去の話ではありません。今のアメリカとイランの関係を見ても、片側は「秩序」や「安定」を掲げ、もう片側は「主権」や「自立」を守ろうとしています。
大局的には似ていませんか?正しさの衝突に見えて、実際に起きているのは、あり方の衝突です。結果として、同じようなことが繰り返される因果となります。
ここまで見てくると、共通点が浮き彫り化されてきます。問題は、
・何をしたか
・どれだけ正しかったか
ではなさそうですね。「どんな関係性で、それが行われたのか?」この一点に尽きるのではないでしょうか?あなたのご意見をぜひ聴かせてくださいませ。
よかれと思っての行為であっても、相手がそれを「自ら選んだ」と感じられなければ、その関わりはどこかで歪んでしまいます。
個人でも、国家でも、その違いはスケールだけで、本質は変わりません。
共生共栄が成立する条件
共生共栄は、美しい言葉です。しかし、それが成立するには条件があります。それぞれが、自立していること。自立していない状態での共生は、支え合いではなく、依存や支配に変わる。
はじめの話に戻ります。イベントの後に残るゴミ。そこには、扱われ方の結果がそのまま表れています。同じように、
・歴史の終わり方
・関係の終わり方
・関わりの余韻
そこにこそ、本質が現れます。
問われているのは、正しさではありません。すべてが完了した後に、何が残るのでしょうか?あなたの関わりの先に残るものは、残したいものはどんな「あり方」でしょうか?