
「平和=幸福」?
かつて私は、世界平和をこよなく願ってきました。戦争がなくなり、誰もが安心して暮らせる世界。実現するなら、きっと多くが幸せになれるーーー。そう考えていた時期があります。
今は、少し違います。もちろん争いがなく、安心して暮らせることを望む方は多いでしょうし、私も完全同意です。しかし「平和=幸福」なのでしょうか?
幸福観とは、各人各様です。豊かな暮らしを望む方もいれば、必要最低限で生きたい方もいます。組織の中で力を発揮したい方もいれば、誰にも縛られず1人で生きたい方も。
極端なことを言えば、ホームレスとして生きることに幸福を感じる方だって、いるのかもしれません。私が「そんな生き方は不幸だ」と思ったとしても、それは本当にご本人においても不幸なのでしょうか?
いかに世界平和を願えども、私の中の平和観の揺らぎが収まることはなさそうです。「私は世界平和を本当に望んでいるのか?」考えるようになりました。平和だから幸福だとは限りません。他者の幸福を、私の価値観で定義していいのでしょうか?
本当に相手のため?
「あなたのためを思って」その言葉の中に、善意があることは相違ありません。しかしその「あなたのため」は、本当に相手のためなのでしょうか?
もしかすると「私だったら、こういう人生が幸せだから」という自分自身の価値観を、相手に重ねているだけなのかもしれません。そう考えると以前の私は、「世界平和」というとても大きな理想を掲げながら、私が考える幸せな世界を押しつけていたのかもしれません。
本当に平和を願っていたのでしょうか?それとも「こうなった方が人は幸せだ」という自分の価値観を、当てはめようとしていたのでしょうか?魂の核から引き出されたものか、表層的な欲求からのものか、どうだっていいのかもしれません。ご本人が本当に幸福ならば。
当然、戦争を肯定したいわけではありません。「私は何を幸福だと思っているのか?」という問いを、他者にもそのまま当てはめていいのか?そこは、分けて考えたいのです。
靖国参拝で、「幸せであってくれ」という声らしき響きが、鮮明に残っています。「英霊の皆さんが訴えかけてきた」と勝手ながら考えることにしています。真摯に受け止め、受け継いでいきたいのです。
よくも悪くも
私は「自立具現化」という言葉を重要視しています。自立とは、何でも1人でできるようになることではありません。その過程を、「ファビゲート」と呼んでいます。ファビゲートとは、Facilitate(促進する)とNavigate(導く・進路を定める)とFabulous(最高に素晴らしい)を掛け合わせた私自身の造語です。
「自立具現化」が目指すゴールなら、「ファビゲート」は向かうプロセス。私は、そのプロセスを担う「自立具現化ファビゲーター」として活動しています。
自立具現化とは誰かに依存することでも、誰かを支配することでもなく、自らの人生の主導権を持つことだと考えています。その方ご自身が望む人生を具現化していくよう土台を築き上げていく役割があると見立てています。
ここで大切なのは、「望む人生」の内容まで、私が決めないこと。私が幸せだと思う人生を、その方にも与えることではありません。「あなたが望むように、どうぞお好きなようになさってください」と主張してきた価値観に反します。
その方ご自身が、「私は何を望んでいるのか?」「何のために生きているのか?」「これが私にとっての幸福なのか?」と問い、自ら考え、自ら決めていただきたいのです。その結果が、私の価値観から見て「よいもの」になるとは限りません。だからこその「よくも悪くも」。
自立という価値観も、ご本人のあり方によって現象化します。幸福という価値観も、その方のあり方によって現象化します。だから私は、あなたの人生を「こちらの方が幸せですよ」と簡単に決めたくありません。
問い続けたいのです。「あなたにとって、幸福とは何ですか?」そして、「その幸福は、本当にあなた自身が望んでいるものですか?」「誰かから教えられた幸福ではないのか?」「世間から与えられた幸福ではないのか?」「『こうあるべき』という常識を、自分の願いだと思い込んでいないか?
そこまで問い続けた先に「私は、こう生きたい」という結晶が見えてくるのかもしれません。私が目指しているのは、誰もが同じ幸福を手にする世界ではありません。
1人1人が、自らにとっての幸福を自ら問い、自ら決め、自らの人生に具現化していける世界。その方が、私には希望ですが、あなたにはいかがでしょうか?