
勝手な想像
豪雨の中、今朝の歩き瞑想より。坂本龍一さんの病床インタビュー(NHK)を、今でもよく覚えています。なぜか脳裏に浮かんできました。
「検査には行った方がいい。自覚症状がないから。」かなり意外でした。「坂本龍一さんほどの方なら、病床でどんな言葉を語るのだろう?」勝手な想像がありました。
「死んでも悔いはない」そんな言葉が出てくるのではないか?それほどまでに、坂本さんは音楽に人生を集中できていたように見えたからです。「音楽が、仕事というより生きることそのものに近い」。かつ、とんでもなく素晴らしい業績を残せています。少なくとも私には、そう見えていました。
だからこそ「検査には行った方がいい。自覚症状がないから。」という言葉が、妙に残りました。
確信
死ぬ直前に彼の生き様が「天命に基づいてはいなかったと気づいた」のでしょうか?手塚治虫さんのように、泉のように溢れ出てくるアイデアがありつつも、形にできない悔しさがあったのでしょうか?もしくは音楽に生きてきたからこそ、最後に体について伝えたかったのでしょうか?
私はいつの間にか「天命に生きているなら、人生に確信があるはずだ」と考えていたと気づきました。「人生に確信があるなら、死を前にしても悔いはないはずだ」とも。
私自身に照らし合わせてみて、違うとはっきり分かりました。もし私が今死のうものなら、確実に未練が残ります。40代半ばまでは苦難の日々で、早く死ぬことが最大の望みでした。「こんな私、生きていたって何の意味があるのか?私が存在しているだけで社会の迷惑だ」多少の差はあれど、こんな思いを抱き続けて30年を超えています。
天命への確信はありましたが、叩けばホコリだらけ。ようやく整理がついて、これからだという時に死んでしまったら・・・。だからこそ絶対に死ぬわけにはいきません。これから本格的な恩返しが始まります。
天命も成長する
帰宅後、さらに深めます。天命に生きることと、自分のすべてを理解していることは、同じなのでしょうか?何かに人生を懸けていることと、それ以外の自分の声にも気づけていることは、同じなのでしょうか?
体の声。
心の声。
まだ言葉にできていない違和感。
それらすべてを感じ取った上で、なお音楽を選んでいたのでしょうか?音楽へ向かう力があまりにも強かったからこそ、別のものが見えにくくなっていたのでしょうか?
他人である私には、分かりません。かつ、坂本さんご本人にも分からなかった部分があったのかもしれません。盲点が0な方はいないからです。
そう考えると、「天命を生きている」という言葉そのものが、少し違って見えてきます。
天命とは、見出せた瞬間にすべてが分かるものではありません。一度確信したからとて、迷いはつきません。私の場合、目的成就に向かい続けながら、その都度ごとに関係性を確かめてきました。
施術家当時、「整体で心身統一を」が天命だと信じて疑いませんでした。2020.4.26.の気づきは、施術家当時の確信は準備段階に過ぎなかったこと。天命も、ご本人の器量に応じて成長します。
私自身、天命という言葉を使いながら、まだまだ分からないことだらけです。だからこそ坂本さんの「自覚症状がないから」という言葉が残っており、今こちらを書く動機になっています。
天命に生きるとは、「これが私の天命だ」と確信すること?確信している自分さえも疑いながら、それでも自分の選んだ方向へ進み続けること?まだ、私には答えを出せません。